シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#41 不確実性の時代におけるデートについて

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 もしあなたが優しい人だと思われたいのであれば、集合場所はビッグイシューの販売員がいる駅にするべきだ。相手が来た時を見計らってビッグイシューの最新号を手に取りきっかり350円を渡すのだ。お釣りをないようにするのが親切と言える。改札を出たばかりの彼女または彼は、あなたが愛情に溢れた人だと思い、尊敬の眼差しであなたを見つめる。そうなるとデートはもう成功したようなものでランチの会話も弾むし、劇場で観る映画も決してハズレではない。

 この作戦には1つ欠陥があって、恋人がビッグイシューについての知識がない場合、あなたは「道端で売られているヘンな雑誌を買うヘンな人」と思われることだ。その場合あなたは説明をする必要がある。

 もっと悪い場合も考えられる。昨今、どこの駅前にも必ずと言っていいほど宗教の勧誘を行なっている人たちがいるので、ビッグイシューの赤い服を着た販売員を宗教勧誘と勘違いすることもあるかもしれない。二重の勘違いによってあなたは「宗教の機関紙を買ったヘンな人」になる。状況はよくない。彼または彼女はあなたのことを心配し、あなたの過去の言動に宗教的なものがなかったか記憶を辿るかもしれない。

 あなたが牛肉を進んで食べないことを彼女または彼は知っている。「肉牛を育てることは環境に悪いから」とあなたはいつも説明していて、バーチャルウォーターやカーボンフットプリントの観点からこれは正しいのだけど、そうした細かいデータをあなたは恋人に語ったことはない。小難しい話はカップルがする会話としてふさわしくないとあなたが思っているからだ。きちんと説明をしなかったばかりに、あなたの恋人はあなたが牛肉を食べないことを宗教的理由のためだと勘違いする可能性もゼロではない。勘違いした相手はこう言うかも知れない。「私も今日からは牛肉を食べることをやめてみようかな」このセリフの後、恋人はその宗教について興味津々で聞いてくるだろう。

あるいは、たまたま駅前で勧誘しているような宗教の中に牛肉摂取を禁じている宗教があって、すでに彼または彼女がその宗教の信者であることも考えられる。可能性は十分にある。おそらく、誤解した恋人はあなたに優しくハグをするだろう。自分の信教について公に語る者に対して胡散臭い視線を向けるこの社会で、その人は今まで自分の信仰を誰かに打ち明けることができなかった。あなたは恋人でありながら、神をも共有する存在になった。同志となってしまったあなたは間違いを指摘することができない。彼女または彼の秘密を知ってしまった以上、ここで真実を明かすと相手は落胆するだろう。秘密を誰にも打ち明けることができなかった悲しみや苦しみを想像し、あなたは数秒間沈黙する。もちろんあなたは誤解を解かないのも裏切りであると知っているからしばらくの間苦悩しなくてはならない。あなたの頭の中でシーソーがゆらゆらゆれている。


 全く逆の場合も想定される。宗教を持つ人に対して彼女が嫌悪感を抱いている可能性も除外できない。そうなるとあなたは窮地に立たされる。あなたはビッグイシューについて説明しなくてはいけない。ビッグイシューの歴史や社会的役割について話さないといけなくなる。あなたはビッグイシューの活動に共感しているからついつい話過ぎてしまうかもしれない。

 それで誤解が解けるならばよいのだが、早口で話すあなたが与えるのは不信感である可能性もある。しかしそうなるともうおしまいで、このデートは大失敗だ。もうお手上げで、何をしても悪い方向へと進む。あなたは家に帰り自室の床で体育座りになったまま1時間ほど過ごすだろう。


 と、ここまで考えたところであなたはスマホを放り投げる。プラスチックと金属でできた板はすぽっという音とともに布団に受け止められる。ああデートに誘うなんてどうかしてる。やはりあなたはその人をデートに誘うべきではない。恋も愛もそもそも初めからなかったのだ。たしかなのはあなたの頭の中だけであり、その他のことは想像するしかない。他人の思考など決してわかることはない。想像しても無駄なのだ。大の字になったあなたは青い天井を眺める。あなたが数秒間凝視すると天井には魚が泳ぎ始める。色とりどりの魚がいるから熱帯の浅い海だろう。ちょうど海底から海面を見上げた形である。日光が波に乱反射してゆらゆらとゆれる。すいと泳ぐウミガメの腹を眺めながらあなたは眠りについた。

 

 

 

結論 完璧などないのだから失敗などに怯えてはならないし、人間は分かり合えない。


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#40 匂い、時々おなら

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 友達に貸した本が帰ってきた。ページをめくるとかすかにその人の匂いがしてちょっとだけドキドキした。私には見当もつかない香りである。多分シャンプーとかヘアスプレーとかそういう匂いなのだと思う。あるいは部屋に置いてるアロマの香りとかそんなのかもしれない。いつか本人に聞いてみたいけど、いざ聞くとなるとやっぱり恥ずかしかったりする。

 

 人それぞれ匂いがある。自分自身の匂いは、自分ではもう意識できないほど当たり前のものになっているけど、どんなに微かでも自分の匂いというものがある。個人差があって強烈な人もいればほとんど無臭の人もいる。同じクラスの同級生の友達で1人、かなりビターな匂いを放つ人がいて、良くも悪くもない変わった匂いだった。ホリスターばかり着てる彼の体臭は、強いていうならば濃い麦茶と濃いコーヒーが混ざった匂いだった。不思議なことだが、初めは違和感でしかなかったその匂いは仲良くなるにつれて段々と気にならなくなった。それどころか、彼が留学に行く前にはその匂いだけで切ない気分になってしまったのだ。単なる慣れと、それから彼が周囲に安心感を与えるタイプだったということが理由であると思う。私は大学であまり友人を作れなかったが、彼の前では素に近い自分を出すことができた。彼の下宿には何回かお邪魔して、泊まったこともあったけれどその匂いがなんなのか究明することはついにできなかった。彼は毎朝コーヒーを淹れていたが、あの匂いはそれだけじゃなかった。もっと複雑な何かだ。

 潮江に住んでいた時 ——ダウンタウンが育った街だ——カホちゃんという友達がいた。彼女の家とは家族ぐるみの付き合いをしていてよく彼女の住むマンションにお邪魔した。彼らの住む部屋もやはりいい匂いがした。不思議な香りで、ロマンチックに例えるなら、夏の早朝、うす青い空に広がる白い雲みたいな匂い。一度カホちゃんから日本の民話が書かれた素敵な本を上下巻2冊借りたけど、そのページの隙間からも同じ香りがして、私の住む部屋に戻ってからもその香りはずっと消えなかった。もちろんカホちゃんもその匂いがしたし、彼女の妹も、両親も同じ香りを纏っていた。なんの匂いだったのか最後までわからずじまいだった

 

 親しい人なら知っていることだが、私のおならはすごく臭い。ひどい時には硫黄に似た匂いがする。自分のおならがとりわけ臭いことに気づいたのはみんなでキャンプに行った時である。従兄弟の家族とカホちゃんの家族と岡山かどこかそっちの方に向かう道中であった。キャンプ場に向かう車内で私はおならが我慢できなくなった。祖母と同じで私も腸が弱くてすぐおならをしてしまう。ステップワゴンの2列目に乗っていた私は我慢しようと思うけれどもどんどんお腹が痛くなってゆく。ちょうどトイレ休憩を済ました後で、次に車が止まるのはキャンプ場であった。自己との闘争の末白旗を掲げた私は音を殺して放屁した。頼むからバレないでくれ!  しかしそこは密閉空間。芳しい香りはまたたくまに各々の嗅覚に到達し、誰かが悲鳴をあげた。必死に平静を装う私。だが私は嘘をつくのが下手ですぐに仮面を剥がされてしまう。魔女裁判が始まり、その日の夜のキャンプファイアでは、タールを塗りたくられた私が全身に鳥の羽をつけられた後、ジリジリと焼かれることになった。ご存知のかたもいると思うが、それ以降私は実体の無い亡霊として永遠にこの世をさすらうことになった。亡霊であるのも意外と便利なもので、亡霊はこうしたインターネット上のブログやSNSといった電脳空間を自由に泳ぐことができるのだ。だからこうして私もブログを通じてあなたに語りかけることができる。なかなか悪くない。ちなみに、死の間際に私が放ったセリフは「まだブラックコーヒーを飲みきれたことがないのに!」というものだった。我ながらセンスが無いと思う。

 

 冗談はさておき、おなら問題は私にとって永遠の課題であるようだ。狭い場所にいる時や環境が急に変化した時など、ストレス下にあると便意ならぬ屁意をもよおしてしまう。

   最悪なのは高校の部活だった。他の部活との兼ね合いでグラウンドが使えない時や雨の日はみんなで筋トレをする。だいたいメニューは決まっていて体幹を鍛えるトレーニングは毎回やっていた。狭い場所でぎゅうぎゅうになってやる筋トレは私の腸には脅威でしかなく、キューバに配備されたソ連製ミサイルの如く私の腹部にプレッシャーを加えてゆく。体幹を鍛えながら放屁することが何回もあってその度に申し訳ない気分になった。楽だったのは通っていたのが大阪の高校で、ちゃんといじってくれるチームメイトがいたことである。いじってくれなかったらと思うとぞっとする。

「おいなんか臭いぞ。シゲ、へえこいたやろ」「いや、おれちゃうわ」「嘘やろ確かめたるわ。おい〇〇(後輩の名)匂ってみろ」「クンクン、、、うぐ!」

 これがおきまりの流れだった。自分の体幹に思いを馳せていると、気づくと自分の周囲だけ人がいなくなってたりした。あるいは私のせいで冬なのに換気をしないといけなかったりした。高校生は本当に馬鹿だ。あまりの臭さに私の腸内環境を大真面目に心配してくれる優しいチームメイトもいたし、お前は食べ物を飲み込む時にお前は空気も一緒に飲んでいるのではないかと指摘してくれるちょっと変わったやつもいた。

 かくして私は「おならキャラ」として時代を築いたわけであるが、臭いのは私の着るトレーニングウエアも同様なのだった。私は「メンバーの嗅覚に訴える存在」としてベンチを温め続けた。いじってくれるだけみんな優しかったのだと思う。

 まあ、正直なところ他の面子だって汗臭いトレーニングウエアを着ていたし、そもそも筋トレをしている床自体、歴代のサッカー部の汗を吸っていて汗臭い場所だ。みんな感覚が麻痺していたのかもしれない。

 毎朝朝練があった。運動して汗で濡れた服はそのままハンガーに吊るしてロッカーの窓枠や格子にかけ、着替えた私たちは1限に向かう。ミニゲームで負けると最後のトンボがけをしないといけなくて、着替える時間が無くなることもある。そういう時はそのままの格好で授業に行かなければならなくて、午前中を汗びっしょりのまま過ごす羽目になった。めちゃくちゃ臭かったと思う。当時のみんな、ごめん。

 

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 一時期私は漢方の先生にかかっていたことがあり、煮だした漢方薬をペットボトルに入れて学校に持っていた。「臭い」「苦い」「色が汚い」と三拍子揃ったその液体は仲間内で罰ゲームに使われたりしたけれど、私は美味しいと思ってぐびぐび飲んでいた。ある時、誰かか「シゲが臭いのは漢方のせいだ」という説を唱えるやつがでてきて、ペットボトルの中のくすんだ灰色の液体はますます嫌われるようになった。私は「そんなことはない」と断固とした態度をとり、以前にも増してぐびぐび飲むようになった。体調はちょっとだけ良くなった。漢方と私の体臭に相関関係があったか、今となっては知る由も無い。

 

 昼練がある日は——確か月水金だったと思う——昼休みの20分弱、体幹レーニングするのだけど、朝掛けた服が乾いてたらまだいい方で大概まだ湿っていて汗臭くなっている。みんな感覚をゼロにして体育館の2階に向かう。たまに運動着を2枚持ってくる用意周到なやつがいて、そいつは涼しげな顔で体育館シューズに履き替えている。

 昼練が終わるとロッカーで着替え、服をまた干す。そして放課後になるとまたその服に着替えてスパイクを履いてグラウンドに歩いていく。

 たまに掛けたはずの服が無くなっている。大抵の場合、風に飛ばされてロッカーの下の芝生の上や隣の建物の間に落ちているのだけど、半年に一度くらい本当に服が無くなっていることがある。周囲を見ると、自分以外の服も無くなっている。

 どうやら生徒指導部の手入れがあったようである。何が楽しいのか生徒指導部の体育教師は汗臭い運動着を集めるという悪趣味をもっていて、来客が来るわけでもないのに「見栄えが悪い」などと難癖つけてロッカーで干されてある体操着を没収してゆく。そうなると我々は教官の待つ体育準備室まで取りに行かなくてはならない。

 

 先生の前にある青い箱の中には様々な体臭がコレクションされていて、律儀にも畳んである。我々は「ちゃんと挨拶せえ」とか「日頃から目につくぞ!」などといったもったいない金言とともに服を返してもらう。そして半年後また服を取られる。

 たまに没収された服を取りに来ない不届き者がいて、彼らの私物は体育準備室の半永久的なコレクションになってしまう。その場合、彼らは洗濯さえもしてくれる。なんて優しいのだろうと思う。

 不思議なのは「山本」とか「吉田」という刺繍の入った学校指定の体操着やジャージまでも半永久コレクションとして保存されていることだ。全校の山本さんや吉田くん一人一人に尋問していけば持ち主がはっきりするだろうに彼らはそうしない。あくまで生徒の自主性を重んじるのだ。ああ、素晴らしきかな自由の校風!

 

 匂いについて考えていたらついつい高校時代の様々を思い出してしまった。今の私がどんな匂いかはわからないけれど、高校時代の私の匂いよりはいいものになっていると嬉しい。高校時代、私の周囲にいた人の中には多分本気で嫌だった人もいると思う。本当にごめんなさい。大人になるにはこういう一つ一つの気配りが必要なのかもしれない。これからも日々精進していきたいと思う。

 ずっと座ってこれを書いてたらちょっと疲れてきた。なんかお腹が張ってるな。片尻上げてみるか。

 

 

#39 新年。映画と小説と音楽と

 

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 2019年の新年を赤の広場で迎えた、と自慢したくて街に繰り出したのだけど赤の広場には入場規制で入れなかった。警察が柵を作った前で動けなくなって、そのまま一時間待って、別にカウントダウンをみんなでするわけでもなかった。ただスマホが新年が来たことを教えてくれた。花火の音が遠くから聞こえて建物の隙間から花火が見えた。たくさんの人がいてぶつからずには動けなかった。みんなスマホで写真や動画を撮ったりしていた。喧騒の中に長居してもしょうがないのでトゥベルスカヤ通りを通ってゆっくりとホステルまで帰った。音楽がいたるところで鳴っていて、歩きながら音楽に合わせてステップを踏んだりした。新年でみんな浮かれていたけれど、通りには清掃員がいて、地下鉄に入る通路には壁にもたれながら虚空を見つめている人がいて、店でヨーグルトを買うと東洋的な顔立ちをした人がお釣りをくれた。それからいたるところに警察がいてテロに備えていた。

 

 ホステルに帰るとみんな落ち着いた様子でシャンパンを飲んでいた。花火——線香花火みたいなもの——に火をつけてみんなで祝った。私もシャンパンを飲んで、くらりとしたからあわててコーヒーを作って飲んだ。平和だった。

 

 ホステルのリビングに男の子が入ってきて私の隣の席に座った。私と同じように彼もロシア語が話せなくて、だからしばらく英語を使って彼と話した。

 歳は幾つだと彼が聞くから22だと答えた。彼も同い年で、ウランバートルで音楽プロデューサーをやっていると言った。彼の仕事の話は中々面白かった。ラップを中心に音楽を作っていて、モスクワにもレコーディングで来ているという。「彼らといるよ」と指差した方には東洋人の顔立ちをした男女3人がいた。全員モンゴル人だった。聞くと、ホステルの隣のスタジオで毎日音楽を作っているのだと言う。4人は共用のキッチンで料理を作るのもお手の物で、新年だからといってみんなのためにパスタを作ってくれた。

 

 私も、「昔美大に行こうとしていた」と言った。その後で「家族が許してくれなかったから結局普通の大学に行くことになったんだけど」と付け加えた。彼も高校を出る時、家族と話して大学に行かないことにしたらしい。その代わり自分で音楽を作って働いているみたいだ。人間の力が強い人にしかできないことだ。私は恥ずかしくなった。「本当は美大に行きたかった」とか誰でも言える。「映画監督になりたい」と夢見るのは誰でもできる。何を言っても、虚勢を張っても、私はただの大学に行ってない大学生だ。「本当に」映画監督になりたいのであれば方法などいくらでもあるし、今からだって頑張れば美大にいけないこともないだろう。

    それはそうと大学に行ってない大学生の価値とはなんなのか。

 

 今映画を作ろうとしている。最後まで出来るかわからないからまだ誰にも言ってなくて、でも頭の中には構想があって、時間はかかるけれどずっとスマホにメモをとっている。ミュージシャンの彼は打ち明ける相手として最適であるように思えた。「自分で文章を書いて、それにそったセルフドキュメンタリーを撮ろうとしてる」彼は驚いた様子だった。セルフドキュメンタリーは監督自身に人を引き込む魅力が必要だ。「君には何かあるのか?」と聞かれた。私は自分のことを話した。

「なぜ先に文章なんだ?」とも聞かれた。「なぜって、、、」言葉に詰まった。多分私は先に小説家になりたくて、でもいつかは映画も作ってみたい。贅沢なことだし夢みたいなことだけど、それでも2019年1月現在の私はこういうことをやりたいと思っている。

 

 彼は本を全く読まないと言った。「本は面白いのか?」と彼が聞くから私は読書と映画の違いについて思うことを話した。

 まずはじめに言ったのは、映画には「視点」がつきものだということ。これは映像と文学の大きな違いだ。小説は文章の積み重ねで、ページに書かれていることだけが、物語の全てである。文字の集合体の前で私たちは主人公のいる世界を想い、読み取った文字は頭の中で映像に変換される。ページをめくるにつれて頭の中でも人物たちが動いていく。脳内でのイメージはぼんやりとしていて自由自在に変えられる。例えば「或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。」という文章を読んでも脳に浮かぶのは様々である。私が思い浮かべるのはキラキラした池の水面と春のようなうららかな空。池に浮かぶ蓮の花はとても綺麗で、モネの描いた絵みたいだ。御釈迦様の足元は裸足。顔は細面で目は閉じている。

    私のイメージは大体こんな感じだけれど、他の人のものと完全にマッチすることはないだろう。正解はもちろんなくて、どの人のイメージも尊重されるべきものだ。この一文を読んだだけでも「ぶらぶら」ってどんな感じだろうとか、御釈迦様の顔ってどんなだろうとか私たちはたくさん考えることができる。のりしろのように残る想像力のための余白。それがあるのが小説の良いところだと思う。他方で映画はカメラという視点がある。映画はカメラが映した映像の集合体で、それによってストーリーが進む。カメラは(基本的に)物事を「ありのままに」映すから観客はあまり考えなくていい。スクリーンに映るイメージはすべて具体的で、想像力の入り込む余地はない。大きな違いだ。

 それから読書は積極的で映画鑑賞は受動的な行為だということも言った。映画は簡単だ。画面の前に座れば、もうそれでおわりである。あとは画面が勝手に動いて物語が進んでいく。90分、あるいは2時間程度座っていればそれで終わり。読書はその逆で、自分の力で11枚ページをめくらないといけない。自分で物語を理解し、脳内にイメージを作り、登場人物や筆者の思考についていかないといけない。

 彼も音楽について言った。映画や本と違って音楽はいつでも聴ける。キッチンにいる時も外を歩いている時も。それが音楽のいいところだと彼は言った。音楽家だからてっきり「自分の作った音楽はゆっくりじっくり聴いてほしい」みたいなことを言うと思っていたからちょっと意外だった。「もし映画音楽で迷ったら、連絡してくれ」と言ってくれた。その後彼が作った音楽や好きな音楽を教えてもらった。私も好きな音楽を話した。

 

 そんな感じで元旦の朝は進んでいった。6時頃になって寝た。

 

 

 

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#38 29+1

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 中国南方航空モスクワ発武漢行きCZ356便。長いフライトで10時間ぐらい座席に座っていた。お尻が蒸れてもう少しで餃子になるかと思った。ディスプレイがあったから映画を観た。悩んだ末 『291』(邦題:『29歳問題』)という映画を選んだ。舞台は20053月の香港で、キャリアウーマンのクリスティが主人公。あと一か月で30歳を迎えようとしている。

 クリスティは大家の勝手な都合で自分のフラットを追い出される。仮住まいとして紹介されたのはティンロという女性の部屋である。ティンロがパリにいる間、クリスティはそこに住むことになる。棚は古いレコードや映画のビデオテープが並べられ、水槽には2匹の亀がいて、壁は沢山の写真に覆われている。見るだけでウキウキするような部屋。素敵な部屋が出てくる映画はたいてい良い映画だと思う。『ゴーストワールド 』や『アメリ』、『勝手にふるえてろ』の部屋と同様、ティンロの部屋も雑多なようで整っていて、小道具たちが持ち主の内面を雄弁に語る。

 

 物語の本筋とはあまり関係ないけれど、クリスティのボーイフレンドが訪ねてくるシーンが印象に残った。出会って10年以上経つ彼らの中は冷え切って、すれ違いばかりである。

 だから訪ねてきても彼は彼女のことなど御構い無し。大量のレコードに夢中である。「上海への出張はどうだった? 」と聞いても大したことはなかったとか、いつもの出張だったとしか言わない。酒が飲めないからパーティーではただ座って上司が喋るのをただ聞いていたとか、退屈だからホテルでずっとテレビを見ていたとか、そういうのばかりで気の利いた返事が1つもない。男の人ってみんなこんな感じなのだろうか。

 私の祖父もこんな感じで、必要以上のことは何も言わない人だ。感情を見せない彼に対して、祖母は何度も怒りをぶつけたけれど、変わることはついぞなかった。一度「どうしておじいちゃんと結婚したの?」と聞いたことがある。祖母は「昔は、無口な人がかっこいいのだと思っていたのよ」と答えた。祖父が「喋らない」のではなく「喋れない」のだと気付いたのはだいぶ後だと言っていた。私が知る限り祖父と祖母は1日以上口論せずにいたことは無い。笑える話だ。お正月もお盆も家族で穏やかに過ごせた試しがなかった。しかし祖母が死んだ今、それすらも懐かしい。

 微かな記憶を集めてみると、私の父もそんな感じだった。祖父よりももっと悪くて、母を運転手や家政婦のようにしか思っていなかったと思う。私の脳内には彼らが愛し合っていた映像は1つも無い。彼に抱きしめられた記憶も、それどころか手を繋いだことも覚えていない。大きくなって何人かの人に父のことを聞いたけどどれもいい話じゃなかった。彼の顔はもう思い出せなくて、でも本棚の奥にはプレゼントでもらったウルトラマンの本がたしかにある。クソ食らえだ。

 

 画面の中では倦怠期もとうに過ぎたカップルがきまずい時間を過ごしている。キッチンの魚はとっくに冷めて匂いだけが漂っている。ボーイフレンドは嘘をついていたのだ。本当は上海出張などなかった。

 彼女は1994年のカウントダウンを思い出す。18歳のクリスティは大学を出てすぐ、できれば23歳までに、当時の彼と結婚したいと思っていて、でもニューイヤーイブの直前に失恋した。1994年を迎えた彼女の横にいたのが今のボーイフレンドで、彼はトニーレオンのモノマネで彼女を笑わせ、なぐさめた。

 ボーイフレンドがいなかった3週間、クリスティの周りでは色々なことが変わった。昇進したものの初めての大仕事で失敗し、クライアントに怒鳴られた。同じタイミングで父親が入院し、程なくして死んだ。仕事に意味を見出せなくなった主人公は会社を辞めた。そしてティンロの部屋でティンロの日記を読んでいた。

 ティンロは思い出ばかりを日記に書いている。一種の自伝のようなものだ。初恋の記憶や6年生に起こった出来事、初めて行ったコンサートのこと。日記は一つ一つの思い出を丁寧に取り出し、汚れを拭き取って並べていく。記憶はとても甘美である。でも一方で、現代に生きる私たちは常に前だけを向くように求められている。香港は都会だから毎日たくさんの人が忙しく過ごしていることだろう。ほとんどの人は過去を振り返る余裕がないし、必要以上に思い出に浸るということは現代社会では死を意味する。毎年同窓会ができるわけではないし、実家にも帰るのも忙しくて難しい。卒業アルバムなんて何年も開いてないしどこにあるかもわからなくなってしまった。

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 何年か前まで、昔話を語る人を「ダサい」と思っていた。今この瞬間にもどこかのバーでは呑んだくれた男が昔の武勇伝を語っているだろうし、またどこかの楽屋では落ち目の芸人が過去の絶頂期を語るだろう。毎日が楽しくて仕方なかった私にとって、そうした「昔話ばかり語る人」というのは過去の遺物のように思えた。「今」という現実に向き合うことができずに過去にすがりついている気がした。

 ティンロの日記もある意味では過去にすがりついている。ただ彼女の日記には人生を楽しもうとする態度があふれているとも思う。自分の好きな人や音楽、レコードに囲まれて生きるティンロの人生にクリスティはひかれる。そんな幸せな時間を忙しい彼女にはもう何年も過ごしてこなかった。記憶や思い出を大切にしようという態度は、ともすれば逃避に見えるけれど、一方では人生に対して真摯に向き合おうとするものなのかも知れない。私たちは昨日今日でできた存在ではない。生まれてから今日までに至る一つ一つの出来事が積み重なって私が作られた。だから過去を振り返る行為も自分に向き合う作業なのかも知れない。

 

 その後、まだ時間があったので『今夜、ロマンス劇場で』という邦画を観た。さっき観た香港映画に比べると残念だった。邦画のコメディってどうしてこうも似た演出ばかりなのだろう。大げさで不自然なセリフも、ノスタルジーを押し付けるような古き良き日本の風景も、既視感ばかりだ。ほとんど観客を馬鹿にしているようなものだ。三谷幸喜の作品の焼直しのような映画に思えた。『ザ・マジックアワー』と『不思議な金縛り』を足して2で割ったような感じだ。「こういうのがうけるんだろう?」という作り手の慢心みたいなのが見えた。私にとって斬新のものが少なかったからだと思う。がっかりしたのでもう1本映画を観ることにした。そうして長いフライトは終わった。

#37 青春ごっこ

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 全部青春ごっこなのよ。彼女はそう言った。小雨が降る夜で時刻は午後8時を数分過ぎていた。とうに閉まったお城の門には屋根があって、私達はそこで雨宿りをしながらお酒を飲んでいた。

 漫画でもドラマでも映画でも、ありもしない「青春」を描いて売っている人がいる。そういうものを信じてしまう人がいて、またそういうものに僻んでしまう自分がいる。高校に入る時、そこには「青春」があるのだと思っていた。入学して1ヶ月、気づいたのは高校も中学とそう大して変わらないということだった。私は焦った。

 「青春」はどこまで続くのだろう。私は22歳だけど、もう私の「青春」は終わっているのだろうか。それともまだ「青春」のまっただ中なのだろうか。ある人曰く、私はまだ思春期の途中なのだという。また別の人は、私はまだ幼すぎて大学生のレベルに達していないと言った。とすれば、私はまだ「青春」にいるのだろうか。けれどもたいていの「青春」映画、小説の主人公は高校生や中学生だと思う。若くてキラキラして未来がある、そんなイメージがある。22歳は「青春」におさまるには年を取りすぎている気がする。

 自覚を持たないといけない年頃、というのもある。どうやらもうすぐやって来るらしい。自覚なんてそんなのクソ喰らえだと思う。私はいつまでも私だし自分の好きなように振舞っていたいと思う。でもわからない。家族とか会社とか子供とか、そういったものが簡単に私を変えるかもしれない。


 17歳の夏、私は必死だった。あと部活ができるのも半年と少し。来年の夏休みは受験勉強で忙しいだろう。文化祭もあと1回しかない。「青春」がどんどん逃げ出していく気がした。美術の先生が若いうちに色々な映画を観ていた方がいい、と言ったからひたすら映画を観た。ただ気になっているだけの人にいきなり告白したりした。でも結局卒業まで「青春」をリアルタイムで実感することはついになかった。もちろん楽しいことはいくつもあって、好きな人と梅田を歩いたとか、事あるごとに胴上げされたとか、家庭科の調理実習の時にした無駄話とか。そういうのが本当の「青春」だったのかも知れない。ただ、当時は「青春」にはもっともっと楽しいことがあるに違いない、という幻想を抱いていて、その場その場での幸せを噛みしめることができていなかった。「青春」に踊らされていた。

 いろんな人の「青春」の話を聞くのは楽しい。失敗談や冒険譚、面白い事件や悩んでいたこと。そういうのはワクワクする。修学旅行でのけ者にされた太田光がずっと1人で煙草を吸っていた話とか、オードリーの高校時代の悪ふざけとか、ラジオでそういうのを聴くと布団の中でニヤニヤしてしまう。

 実話ベースの小説も楽しい。最近読んだ「青春」文学は村上龍の『69』で、とても面白かった。ただただ日々を楽しもうとしている高校生の話なのだけど、ずっと一緒にいた人が離れて行ってしまう寂しさもちゃんと書かれていた。前半がお馬鹿で楽しい分、最後はうるっとなってしまった。スティーブン・キングの『スタンドバイミー』も読んで以来ずっと好きだ。キングと同じような12歳を送りたくて、6年生の私は親友を見つけようと必死だった。あと、森絵都の『永遠の出口』も何回もよんだ。千葉に住む女の子が成長していく話で、誰の人生にもあるようなありふれた記憶を大人になった「私」が振り返りながら書いている。思春期でふてくされた「私」が家族で別府に行く話や、ケーキ屋でのバイトの話、卒業式後の屋上で盛り上がったこと、そういった誰かの思い出が私の頭の中に入って私や他の思い出とミックスされ、再びどこかへ飛んでいくのだとしたら、それは美しいと思う。

 

 書きながら1つ思い出した。中学の修学旅行で鹿児島に行った時、みんなで1人ずつ噴水をくぐり抜けたことがあった。あの時はとても楽しかった。走り回りながら「青春はこんな感じなのかもな」とたしかに思っていた。もしかしたらこれは青春と認定していいのかも知れない。

 水族館近くの噴水、いつかまた行きたいな。いや行かない方がいいかな。

 

#36 私はМ-1グランプリを見た!!

 

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 スーパーマラドーナが好きである。初めて見たのは2012年のThe Manzai 。それまでも深夜の番組で見たことはあったけれどコンテストのための漫才は初めてだった。

 伯父とホームセンターに行った帰りだった。記憶が正しければ、コーナンで買い物をして、二人で焼き鳥を食べて帰るところ。カーナビでテレビを見ようということになってたまたまつけたのがThe Manzaiだった。ちょうど彼らの出番で、小さい画面の中で芸人人生についての漫才をしていた。それがすごい面白くて。お笑いを言葉でそう表現すればいいのかわからないけれどとにかくすごい面白かった。メガネの田中と元ヤンキーの武智。二人のキャラクターが好きだった。武智が丁寧にすすめる展開の中で田中が暴走するのが面白かった。ファンになった。

 同じ組のアルコ&ピースが意外性のあるストーリー漫才をしてそれが会場に受けた。審査員たちは——なぜそこに座っているのかわからない秋元康テリー伊藤も含めて——アルピーに票を入れてスーパーマラドーナは敗退した。私にとっては面白くなかったけれどまあ笑いというのはそういうものなのだと知った。

 

 

 漫才を見るのは年末年始だけ、という家だった。そもそもテレビを見せてもらえなかった。なんとなくテレビは悪、教育によくない、という風潮が家にあって、NHKやニュース番組しか見れなかった。小学校高学年の頃はお笑いブームで、毎週イロモネアとかレッドカーペットとかやっていたのだけど、私は中学受験の勉強で忙しかった。2008年のM-1グランプリ 、オードリーとNON STYLEが一夜にしてスターになった。次の日の学校ではみんな春日のギャグ「オニガワラ!」をやっていたけど私には全く意味が分からなかった。

 全くテレビを見れなかったわけではない。小学校三年生の時、私は神戸の山の中にある病院に一年間入院することになった。そこでは毎日決まった時間、テレビを見ることが出来た。同室の友達とテレビを選ぶのだ。私は木曜日のアンビリバボーが好きだった。今はもうチープな番組としてしか見れなくなってしまったが、感動の実話を再現するシーンで私は毎回泣いていた。そんな9歳児だった。その頃から頭がおかしかった。

 病院では毎日9時までしかテレビが見れないのだけど、週のおわりだけは別だった。みんなが外泊して家に帰る金曜日はテレビが10時まで見れた。その時の私にとって午後10時という時間は深夜で、そんな時間にテレビを見れるなんてぞくぞくした。           

 私の4号室は金曜の夕方には空になった。みんな家族が迎えに来て家に帰るのだ。看護師さんは私を5号室に移す。5号室にはやっぱり家に帰れないさとちゃんがいて、週末は彼と一緒に過ごした。さとちゃんは三つ子で、姉妹と共に同じ病棟に入院していた。両親が軽自動車に買い替えたせいで車いすを乗せることができなくなり、三兄弟で一人だけ家に帰れないという可哀想な子だった。生まれてずっと入院している子だった。私は一年で退院できたけど彼は生まれてからずっと入院しているみたいだった。その病院は私が退院した2年後に閉鎖された。思い出がいくつか残った。

 とにかく、毎週末さとちゃんと過ごした。同じ部屋でご飯を食べて(病院の給食で一番おいしいのは貝柱のフライだった)その後一緒に見るテレビが「笑いの金メダル」だった。あんまり覚えてないけどピン芸人のヒロシとか波田陽区が一世を風靡したのもこの番組がきっかけだったと思う。子供でまだお笑いのルールとかよくわかっていなかったけどテレビの前でガハガハ笑っていた。それがお笑いとの出会いだった。

 

 昔も今も水曜は母親の帰りが遅い。つまり毎週水曜日はテレビが見れた。ちょうどいい時間にテレビでやっていたのは、はねるのトびらだった。番組の中のコントが好きだった。私のお気に入りはロバートの馬場。彼のおしゃれな髪型と眼鏡がかっこよかった。インパルスのシュールなボケと突っ込み、いるだけで面白いドランクドラゴン塚地とニヒルな鈴木も好きだった。残念なことにはねるのトびら2012年で終わってしまった。最後の方はほとんどコントもしていなかった。ピカルの定理が始まって人気も下火になっていたと思う。

 

 

 TheManzai を見てからしばらくは、スーパーマラドーナのネットで動画を探してもなかなか見つけ出せなかった。彼らよりももっと有名なスーパーマリオのゲーム映像とかマラドーナの五人抜きの映像が出てきたりした。だんだんと知名度が上がるにつれてYouTubeにも動画が上がるようになったし漫才特番にも出てくるようになった。嬉しかった。大学に入ったら劇場に観に行こうと思っていた。(まだこれは果たせていない。ルミネは遠い)

 浪人の時スーパーマラドーナM-1 の決勝に出た。お笑い好きの友達が予備校で昼ご飯を食べながら彼らがどうだったか教えてくれた。それが2015年で、そこから彼らは今年の大会まで四年連続で決勝に出場した。

 面白いのだけど優勝するほどまでではなくて、毎回悔しそうだった。2016年から毎年和牛が活躍するようになった。ホームランを打てる彼らに対してスーパーマラドーナは突き抜ける部分がなかった。ツーベースやスリーベースしか打てなかった。ミキみたいに華があるわけでもなかった。それでも堅実に毎年決勝に出続けていた。

 

 

 M-1 に出場できるのは結成15年以内に限られるみたいで、ジャルジャルギャロップスーパーマラドーナは今大会がラストだった。

 ラストだったからか、ひいき目なのかスーパーマラドーナのネタはいつもよりぶっ飛んでいるように見えた。吹っ切れて漫才をしているように見えて潔かった。覚悟のようなものが見えて漫才の最中からぽろぽろ泣いてしまっていた。この人たちは結成してから15年もこの大会のことを考えているのだ。

 まあ点数はあんまり入らなかった。ぶっ飛びすぎていて漫才としてはあんまりよくなかったのかもしれない。あるいは松本人志が言ったように「ネタが暗すぎる」のかもしれない。まあ仕方ないかなあと思った。サイコ過ぎたし、確かに笑えない人もいるかもしれない。技術的なことはよくわからないけど「後半と前半のバランスが悪い」みたいなことを審査員の誰かが言っていた。なるほどとは思ったがファンである私には終始面白かった。いいネタだと思うんだけどな。

 

 

 もう一つのお気に入りのコンビ、ゆにばーすもあんまりよくなかった。序盤で噛んで上がってしまったらしい。噛んだのは気付かなかった。録画を見返してはじめて気づいたが、そこまで致命的なミスとは思えなかった。でも硬さとかはあったし、受けてもいなかったし、空回りしていた。もしかしたら大声でツッコむ漫才はあまり受けなくなっているのかもしれない。彼らは漫才を終えてから終始落ち込んでいたけど来年も頑張ってほしい。オール巨人が言ったようにスタイルを変えたゆにばーすが見てみたいと少し思う。

 あとギャロップが自身のハゲた頭をネタにしているのも受けなかった。「そもそもこういう賞レースで自虐ネタはダメです」って上沼恵美子が言っていた。正しいと思う。自虐は時と場所を選ばないといけない。自虐で笑いを取るたび、何かが一つ失われる。まあ素人である私の自虐とギャロップの職人芸的自虐は全く別物なのだが。

 

 

 そもそもが異常な番組である。

 一言で言うとお笑いに点数をつけるっていうのがナンセンスだ。あと人を笑わせることにあそこまで真剣になるのも日常ではありえない。笑わせるはずの出演者たち自身がまず緊張している。漫才を審査する人たちも大変そうだ。

 

 お笑いに限らず評価するのは難しい。

 たとえば映画。毎回アカデミー賞では物議がある。黒人の俳優が少ないのではないかとか、反トランプを掲げる風潮が反映されてるじゃないかとか。「純粋にいい映画を決めよう!」という雰囲気はあんまりない。もちろんそういう気概を持った人もいると思うけど少なくとも大阪まで届いてこない。

 たとえばフィギュアスケート。フィギュアはスポーツでありながらもうほとんど芸術にもなっている。音楽を身体で表現するスケーターをどうやって評価するべきなのか? 音楽との調和や技と技の繋ぎをどう点数つけるのか? これは難しい。それだけではない。決められた時間に要素を一つ一つこなさす必要がある。本当に忙しい競技だ。ただ、要素一つひとつ、ジャンプの種類に点数があってだからこそ競技として成り立っていると思う。スピンやステップのレベルも厳格に基準が決まっていて——姿勢を何回変えたとか同じ姿勢を維持して何回回ったとか、どれだけ体重移動を行っているかとか——それなりに納得できるシステムになっている、と思う。

 

 オリンピック種目と違ってお笑いにははっきりとした基準が無い。最終的には個人の基準にゆだねられてしまう。「観客がどれだけ笑っていたか」とか「噛まなかった」とか色々基準はあると思うけれど、極論は「審査員の好き嫌い」になると思う。「好き嫌い」といっても審査員の中に哲学があると思う。ただそれを伝えるにはM-1 の中で審査員の7人に与えられている時間は少ない。

 だから審査員に対して不満がでるのは仕方ないと思う。「おれはこうやって点数つける」とか「○○のつけた点数はおかしい、来年から審査しないで」みたいなことを言う人がいる。「おれはこう見た!!」みたいなのをSNSにあげる。悪口はいかんと思うけど、それでも見ていたら面白い。「ふーん、この人にはこうやって見えたんや」みたいな気付きがたくさんある。M-1 を見ながら、傍らではスマホを開いてTwitterを見ていたけど、いろんな人が思い思いのことを呟いて面白かった。

 個人的には上沼恵美子立川志らくの講評が面白かった。上沼さんは厳しいことを言うこともあったけれどそれは基本的に優しさから来ているように思えた。それから志らくは本当に興味深い人だと思った。二人とも気になるのでちょっと調べてみようと思う。

 

 

 優勝は霜降り明星だった。ツッコミの粗品がフリップネタをしているのを見たことがあってそれで名前は知っていた。てか「粗品」って芸名、かなり秀逸で面白いと思う。

 25歳と26歳。4学年上の人が天下を取ったのを見て私は興奮した。

 自分も何かしないといけないと思った。でも何を?

  霜降り明星の漫才についてナイツの塙が講評で言っていたのは「圧倒的に強い人間がやっている」漫才だということだった。講評を聞く姿勢とか会見を見ているととてもしっかりしている人たちという印象だった。

粗品は優勝後の会見で「世代交代」という言葉を使っていた。強いなあと思う。

 さあ、私は何をできるだろう? まずは引きこもりを脱しないと。

 

 世代交代が起こって来年のM-1 はどうなるのだろう。楽しみである。

 

 

#35 偶然/必然

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 自転車がパンクした。ここ一か月でもう3回目である。誰かにいたずらされているのではないかと勘繰りたくなるような頻度である。はじめに後輪が2回パンクしてチューブを新しくした。大学が午前中で終わった日の午後、自力でチューブ交換をしてみたのだ。これが案外簡単にできた。昔、ことあるごとに「おれは一人でパンク修理ができるんやぞ」と豪語するクラスメイトがいて、そんな彼をすごいなと思っていた。でもなんだ、やってみれば簡単じゃないか。

 3回目の昨日は前輪だった。たまたまパンクした場所が自転車屋の近くだったのでそこで直してもらった。自転車屋の隣にはドン・キホーテがあった。ふと気付いた。1回目のパンクもこのドン・キホーテの近くだった。大学に行く途中でパンクに気付き、ドン・キホーテの駐輪場に自転車を止めてひとまずバスで学校に行ったのだ。よくよく考えると2回目のパンクも別のドン・キホーテの近くであった。私はその奇妙な偶然に驚いた。3回のパンクが全てドン・キホーテの近くで起こっているのだ。少し怖くなった。21世紀になってもやはり説明のできない出来事は怖い。

 

 

 大学に入って一度だけおばあちゃんに手紙を出した。1週間後に返信が届いた。病気が進行するに連れて祖母はますます読書を楽しみとするようになっていて、その頃は私が貸した沢木耕太郎の「深夜特急」を読んでいた。手紙にも「深夜特急」のことが書いてあった。沢木耕太郎は「デリーからロンドンまでバスで行ってやる」といって一人旅をした人なのだけど、おばあちゃんの若いころにも小田実という人がいて、彼も「何でも見てやろう」という本に世界旅行の経験を書いたらしい。おばあちゃんはそういう諸々を手紙の中で教えてくれた。

 朝日新聞の一面には「折々のことば」というコーナーがあって、鷲田清一古今東西のステキな言葉を紹介している。毎日、過去の名言とそれにまつわる彼の文章が載っている。私はよくもまあネタが尽きないなと思う。もう1200回以上連載しているはずだ。

 おばあちゃんの手紙を読んだその日、鷲田清一が紹介していたのは「人間古今東西みなチョボチョボや」という小田実の言葉だった。びっくりした。その日まで「小田実」という名前を聞いたことも読んだこともなかったのにたった一日で2回も目にしたのだ。不思議である。ここから遠くない芦屋に彼の記念碑があって、その言葉が刻まれているということも新聞には書かれていた。

 それだけではなかった。「小田実」の名前はその午後読み始めた本の中にも出てきたのだ。新潮文庫「ニ十歳の原点」。その本にも彼の名前が紹介されていた。何か目に見えない力が働いているような気がして鳥肌が立った。「ニ十歳の原点」は学生運動全盛期の京都で大学生だった高野悦子という人が書いた日記である。「何でも見てやろう」が出版されたのが1961年で、高野悦子の日記が書かれた時期は60年代の終わり。小田実ベ平連といった平和運動に参加していた人だから当時の学生には広く知られていたのだろうと思う。

 同じ人の名前が別々の場所から3つも出てくるとやっぱり怖かった。ただの偶然とはいえその偶然が何か意味を持つのではないかと考え込んでしまった。私の思考は「運命」とか「啓示」といったスピリチュアルな方向に向かってしまい、その日は何をしていても頭の片隅でそのことを考えていた。

 

 

 1カ月前、連続して「ヘンな」ものが見えた。

 ある朝駅に向かう途中で犬を散歩させている人影を見た。確かに見た。しかしその一人と一匹は、私が地面に目を落としまた顔を上げるまでの数秒足らずの間に影も形もなくなった。急いでいたのでちゃんと確認しなかったけれどどう考えてもおかしな出来事だった。

 その次の月曜日にもまた「ヘンな」ものがみえた、祖父の家の手前50メートルほどのところを自転車で走っている時のことだった。時刻は夜10時で暗かった。坂道なので立ち漕ぎをしていた。祖父の家の門灯を見ていると人影がスーッと移動して門のところに入っていくのが見えた。初め、祖父だと思ったので「ただいまー」と呼びかけた。けれども返事はないし、門が閉まる音もしない。センサーで点く防犯ライトも反応はなかった。玄関の扉を開けて祖父に訊くと、彼はずっと書斎にいたと言う。自分の見間違いとも思ったけど、何かを見たという確信があった。泥棒かとも思ったが、生身の人間なら防犯ライトが反応したはずである。謎だった。怖かったので家中の電気を点けて風呂に入った。

 シャワーを浴びながらいろいろ考えていた。どこかで誰かが死んだのかもしれないとぼんやり思った。誰かが私にメッセージを送ってきたのかもしれない。いつか聞いた怖い話を思い出してぞっとした。

 突然お風呂のドアの向こうから電子音が聴こえた。ピピピピピピピピ……。体をふいて急いで出ると、誰も設定していないのにリビングでアラームが鳴っていた。時計を見ると日付が替わって10月2日になっていた。そこでようやく気付いた。そうか、2日は祖母の月命日じゃないか。そう気づくと、少しうれしくなった。丁度1年半だった。

 

 ドライヤーで髪を乾かした後で、祖母の写真の前に正座し、線香に火をつけた。煙の筋を見ていると少し気持ちが落ち着いた。もちろん私が勝手に盛り上がり、自分の都合のいいように物事を解釈しているだけとも言えよう。こういうものを全く信じない人の目には、私の思考も行動もひどく馬鹿げたものに映るに違いない。

 それでも私はその夜の不思議な出来事に理由を見つけることが出来てほっとした。

 

 その話は祖父にはしなかった。ただ彼の部屋までは行った。

 彼はパソコンの前に座っていた。もう寝ようとするところだった。見ると彼は画面の上にあるタブを一つ一つ消していたのだけど、最後にデスクトップに残ったのが谷町にある風俗店のホームページだった。私はニヤニヤがとまらなかった。そして少し安心した。自分の心配がちっぽけなものだと気づけたし、この人は恐怖をみじんも感じていないに違いない。

 一方で、それは悲しいことだとも思った。この人とは今の感情を共有できないと感じたからだ。私の恐怖も感動も、彼にとっては隣の星雲の出来事と大差ないのだろう。