シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#138 『LA LA LAND』いつかたどり着く場所

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昔描いた絵



 もう3回目だからぼんやりと観ていた。何となく水族館に似ているなと思った。照明の薄暗い通路と屈折して散らばる光の線。大水槽には悠々とジンベエザメが泳ぎ、水紋がそのまま影となって足元で揺れ、光に照らされた中を大小たくさんのクラゲが浮かぶ。深夜の薄明りの部屋、ラップトップで映画を観ながら頭の中ではなぜか水族館のことを考えていた。パーティーに行く前の「Someone in the Crowd」のシーンが、どの水族館にもあるような熱帯の水槽に思える。エンゼルフィッシュが泳ぎ、クマノミがサンゴの中に隠れ、イソギンチャクが揺れている、みたいな。

 そもそもロサンジェルス(ロサンゼルス?)が人工的な街なのだろう。いつか読んだリービ英雄は、四季のないロサンジェルスで日本の古典文学の講義をする違和感について書いていた。ミアの働くカフェも人工的なセットの中にある。彩度の高い衣装が多かったり、夕焼けが現実味がないほどに美しかったり、何となく人工的な画面が多い(気がする)。

 映画冒頭の「Another Day of Sun」のシーンからすでに人工的というか嘘くさい。渋滞中の車から一斉に道路に出て歌って踊るなんて、現実からほど遠いじゃないか。まあミュージカルってそういうもので、嘘だからこそ感動するみたいなこともあるのだろうけど。というか、ドキュメンタリー以外の映画って全部そうか。厳密に言えばドキュメンタリーもフィクションだし。

 冒頭のシーンにいる人たち、ダンサー、歌手、ミュージシャン、スケボーうまい人。みんな個性を持っている。服の色、肌の色、車の色。聴いている音楽も様々で、間違いなく全員が全員の物語を持っている。なのに画面に映る誰一人としてこの映画の主役にはなれない。それってなんか悲しい。

 

 ミュージカル映画の苦手なところは、主役以外の人物に全く焦点が当たっていないことが多々あること。脇役の彼に歌うパートがあっても、主役を引き立てるだけにすぎないことも多い。結局彼らは、主役の添え物でしかなくて、やっぱりご都合主義なんだな、なんて思ってしまう。人がいきなり踊りだして、みんな楽しそうで、アップで映る主役同士が恋とか愛とか確かめあって——なんて映画はもうたくさん観てきた。だからごめんなさいもう飽きてしまいました。

レ・ミゼラブル』——トム・フーパー監督の2012年の映画の方です。お間違えなきよう!——は、めちゃくちゃ好きだけど、それはジャベール警部やテナルディエ夫婦のような「主役でない人々」にも歌うシーンがあるからだ。ジャンバルジャン、コゼット、マリウスの3人が物語の主旋律なのは間違いないけれど、脇役が大事にされているからこそ、良い映画——少なくとも私にとって——なのだろうと思う。もしエポニーヌが雨の中で歌うシーンがなければ、こんなに好きになってはない。

 ご都合主義に則って脇役の人格や背景が描かれないのであれば、主役がエゴイスティックに見えてしまう。そうした映画を私は好きになれないだろう。例に出して申し訳ないけれど、『グレイテスト・ショーマン』のお決まりの感じが私はいつまでたっても好きになれない。

LA LA LAND』がすごいと思うのは、ミュージカル映画にありがちなご都合主義的ストーリーを回避しているところ。LAの大都会を見下ろすグリフィス・パークの丘の上でセブとミアがダンスするシーン。恋に落ちた2人のキスシーンを音楽の最後に作れば、それがミュージカルの「お決まり」なのだろうけれど、ダンスの後でミアの電話が鳴ってしまう。電話の後もミアのプリウスがすぐに見つかり、立ち話をする口実が無くなって、彼らは別れないといけなくなる。『理由なき反抗』がスクリーンに映るリアルトシアターでもいい感じになったところでフィルムの不備かなんかで上映が終わってしまう。脚本家は意地悪で簡単にキスさせない。

 そうは言っても、物語を展開する上で完全にご都合主義を避けることは不可能で、ミアのルームメイトは「Someone in the Crowd」で、オーディション生活に疲れたミアをパーティーに連れ出した後ではあまり出てこなかったりする。彼女たちを主役にしたアナザーストーリーとかあったら面白いだろうなと思う。時間があったら自分で作ってみてもいいかもしれない。セブのクラクションに驚き、悩みながら執筆したミアの一人芝居を見た彼女たちは、何年か経って映画スターの元ルームメイトとして雑誌の取材を受ける。どう書いても面白くなりそう。知らんけど。

 

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 昔からそういう妄想とか想像が好きだった。初めて想像の世界は多分ウルトラマン。眠れない夜はウルトラマンに登場する人の日常生活がどんなのだろうなどと考えていた。尼崎の小さな部屋。豆電球のオレンジの光。

 小学校の授業中は「今大声をだしたらどうなるだろう?」とかよく想像してたし——実際に大声をだしても何も起こらなかったけどね!——電車通学をするようになると前の席に座る人の職業や家族構成を勝手に想像したりしていた。そのうちに目の前の現実を見つめるよりも想像の方が楽しくなって、毎日ノートに夢を書いたり、本や映画の世界にのめりこんだりしていた。

 映画『LA LA LAND』が日本で公開されたのは2017年。当時好きだった映画は『LIFE!(原題:The Secret Life of Walter Mitty)』とか『ルビー・スパークス』、『主人公は僕だった(原題:Stranger Than Fiction)』等々。3つとも空想と現実のバランスが最高で、当時何回も観ていた。

 最初にこの映画を観た時は、想像と現実の重なる映画として観ていた。映画館の長回しの「Another Day of Sun」は衝撃だったけれど、それは高速道路で車から出てきた人が一斉に踊りだすというのが、空想的で現実にありえないシチュエーションだったからでもある。プラネタリウムの中を踊るシーンと、映画終盤「こうなったかもしれない未来」の中で踊るシーンも同じ。現実にはあり得ない誰かの空想で作られたシーンでいつ見てもグッときてしまう。映画だからこそ許されるものだ。小説でもYouTubeでもこんなことはできない(はず)。

 

 2回目に観た時は、多分2018年とか19年とかで、何をやってもうまくいってない時だった。夢とかそういうのを考えるのがもう辛くて、だから夢を優先して2人とも成功する姿に嫉妬して、モヤモヤした思いで映画を観ていた。「だって映画でしょ? そりゃ2人とも成功するよな。フィクションだもの」とにかく腐りきっていた。

 大学に入学した当初、映画に関する仕事をしたいと思っていた。けれど初めて知り合った映画批評家が最悪最低だったり、次々に映画業界のセクハラやパワハラの問題が明らかになったりで、すっかり幻滅してしまっていた。世の中にあるすべてのものがフェイクというか嘘くさく思えるようになってしまった頃。YouTubeHump BackMVを観て、コメント欄にある「売れたバンドが、悶々とした日々の生活の苦しさとかを歌っても冷めるんだよね」という誰かの言葉で深夜に泣いていた時期。その時はミアがセブに尋ねる「Do you like music you play?」というセリフが心に刺さった。
 ほぼ同時期に友達と観た『はじまりのうた(原題:
Begin Again)』にも同じようなシーンがある。「フェイク」な音楽を作って人気者になる元恋人をキーラ・ナイトレイが問い詰める大好きなシーン。「やりたい○○」と「お金になる○○」の違いに私たちはずっと悩むのだろうと思う。

 

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 最近お笑い芸人の世界に興味が湧いてきて、YouTubeやラジオを見たり聴いたりしている。人にもよるけれど「やりたい笑い」と「お金になる笑い」の差はけっこう大きいと思う。「売れていく」ということはめちゃくちゃ難しいことだし、すごいことなのだけど、その分不自由さも伴うのかもしれない。昔よく見ていたステレオタイプ的な芸人は、熱くてガツガツした人だったのだけど、そういう人達はけっこう減って、どこか悟ったような顔をしながらライブシーンを大事にする芸人が増えた気がする。売れなくてもお金を稼げなくてもいい、みたいな感じ。諦念とも言えるかもしれない。

 ここ1年、文章をコンペに出しては落選し、というのを結構やった。「書きたい文章」が「評価される文章」であることはとっても少なくて、現状「書きたい文章」が「お金になる文章」であることはもっと少ない。でもまだ表現したいことはたくさんあるし、長い道のりかもしれないけれど頑張りたい、頑張らないと、頑張れるよね。就活もしたくなくて、でも大学生活がずっと続くわけではなくて、「ああどうしたらいいんだろ」なんて考えている毎日。だから3回目の『La La Land』は、夢追い人の物語に過去2回以上に引き込まれてしまった。

 ライアン・ゴズリング演じるセブは才能のあるピアニストなんだけど本物志向の偏屈者。歴史あるジャズクラブが今やサンバとタパスの店になっているのが気に食わなくて、いつか自分の店をそこに構えるのが夢らしい。でも現実ではお金がない。弾きたくもない曲をレストランで弾き、突然やってきた姉にああだこうだ言われる。自分の店を持つという夢のためにキースのバンドに入り、成功しお金を稼ぐ。

 役者志望のミアはパートタイムで働くカフェの合間にオーディションにエントリーし続ける毎日。とりあえずオーディション受けて、また落ちてという、よくCMで見る「就活の悪い例」を地で行っているようにも見える。不安ばかりの彼女の世界では、パーティーがスローモーションに見えたりするし、ディナー中にテーブルの声が全く聞こえなくなったりする。セブよりもミアの方が観客はより共感できるし、応援しやすくなっている。見ようによっては、役者志望のミアがスターになる過程をVR感覚で楽しめる映画、と言えるだろう。というかそういう風に今回は思えた。夢追い人の一員になった2021年の私は、エマ・ストーン演じる主人公がチャレンジを継続した結果報われる姿に、勇気づけられた。自分でも意外だった。同時に今までは何も思わなかった「Another Day of Sun」の歌詞の残酷さにも気づいた。追い続けた夢をいつまでもつかめなかったら? 何もつかめないまま年を取ってしまったら? 夢とお金、冒険と安定、勇気と狂気。悶々とする二項対立。

 たくさんの見方がある映画だと思う。LAを知っている人や行ったことのある人なら知っている知識と照らし合わせて観られると思うし、音楽だけで楽しめる人もいると思う。衣装もたくさん登場してそれに着目しても面白そうだ。

 次に『La La Land』を観て、将来の自分が何を考えるのかかなり興味深い。そしてちょっと怖い。その時に自分が持っている余裕やお金によって感想はかなり変わりそうだ。文章で「成功」できたらいいけれど、世の中はそんなに甘くないし、私の物語はまだ始まってもいない。

 

 

【今日の音楽】

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