シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#146 永遠の入り口

f:id:shige_taro:20210924015834j:plain  

 誰かと仲良くなる。「○○が好きなの?」「一緒だね」「似てるね!」そういうやりとりが繰り返されて、束の間私はうっとりしてしまう。共通点がたくさん。育った町や行った場所。好きなバンド、スポーツチーム、アイドル。出会った日はうっとりしながら帰る。また次に会う時にこんな話をしようとか、もしかして私が好きなあの映画も、あの人は好きなんじゃないかとか、そういうのを考えて一人で嬉しくなる。「この小説知ってる? ○○にオススメかも」なんていうlineを送ろうか送るまいか迷ってやめにする。時々我慢できなくて送る。

 しばらくして、違いが見えてくる。「あ、ここはちょっと違うんだ」なんてことが増えてくる。私がよく見てしまうのは家族のことや金銭感覚。自分と違うことに気づいて、そして勝手に裏切られたような気になる。その人と「おんなじ」だと思っていたのに、実は違っていると知ってしまったから。そうよね、違っているよね。当たり前だよね。全部一緒なんてあるわけないよね。わかっているけど少し悲しくなる。

 オードリーの若林もこの前のラジオでそんなことを言っていた。その人の言葉や表情に「わかるなあ」「一緒だなあ」って思うことが多ければ多いほど、違っていることが逆に目立つ。好きだからこそ、共感することが多いからこそ、違うということに悲しくなってしまう。

 そんな時、その人との距離が急速に遠くなるような気がする。ぐるぐると回転しながら宇宙空間に放り投げられたような気分。「地球は青かった」なんて言う暇もない速さで私は飛んでいってしまう。

 人間にはいろんな面があって、だからある一つの面だけでその人のことを決めつけて、勝手に悲しんだり起こったりするのは、あまり良いことではないかもよ? そう教えてくれたのは小説家の森絵都さん。『カラフル』という黄色い表紙の本だった。中学受験の国語のテキストで出会ってから、10代の前半、森絵都の本ばかり読んでいた時期があった。児童文学も、それから大人向けの文学も両方書いていた森絵都さんのおかげで、あの頃大人への階段を少しずつ上がることができた。中学校の図書室に置いてある本が小学校の頃のそれとは違って面食らった私は、馴染みのある森絵都の本を見つけて安心した。ストーリーはもうほとんど覚えていないけれど『つきのふね』や『ゴールド・フィッシュ』という彼女の本をある時期夢中で読んだ。その中でもやはり『カラフル』は特別で何度も読み返した。それなのに、時々私は一人の人間の中にもたくさんの色があることを忘れて、裏切られたように感じてしまう。

f:id:shige_taro:20210924015859j:plain

 

 人は変わる。現実の中のあなたも、思い出の中のあなたも。みな時間とともに変わる。一つの真理だ。そして彼らは私の人生を横切っていく。これもまたもう一つの真理。グーグルで「Friends come and go,」と検索すれば古今東西の名言がザクザク出てくる。人生における人の出会いと別れなんて、寄せては返す波のようなものなのだ。満ち潮とともに消える城のように、後から思えば、そもそもあったかどうかも確かでなくなるような儚いものなのだ。砂丘の上の鳥の足跡のように風が吹けばすぐに消えてしまうのだ。

 誰かと出会って意気投合した時、これからもたくさん楽しい話をしようと思う。あんな話こんな話。一緒にどこか行ってみたいとかそういうことも思う。出会いには別れがつきものだということも、時間には終わりがあることも忘れて、ずっと一緒にいられるなんていう勘違いをしてしまう。他の人も、これを読むあなたも同じように感じたりするのだろうか。同じように思っている人がいたら嬉しいな。もしかしたら私の中を流れる時間は、「ふつう」の人よりも緩慢なのかもしれないと、時々不安に思う。

f:id:shige_taro:20210924015956j:plain

「今日あまり話せなかったな」

 初めて打ち上げの帰りに泣きそうになったのは中学3年生の時。体育祭だった。もっと話したいのに、焼肉の食べ放題の時間は終わってしまって、別れたくないから河原でみんなで話したりしたけれど、門限があるから帰らないといけなくて、そういうのを初めて悲しいと思った。帰り道が途中まで一緒でもどこかで別れないといけなくて、そういうのって悲しいことなんだなって知った。この角を折れて家に着けば、風呂に入って眠りにつけば、今日の楽しかった時間や会話が無くなってしまうような気がした。体育祭が終わって日常が戻れば、今日の出来事を忘れてしまうかもしれない。悲しかった。永遠などないと初めて思い知った。

「仲が良い」とまでいかなくても「一緒にいて楽しかった」ということは、おそらくその人との間で何かを共有できたということなのだと思う。一時的に共有できたものが無くなってしまう、元々無かったことかのようになる。そういうことが悲しみの原因だと思う。

 永遠なんてないのに、ずっと話していたい、繋がっていたい。未だにそう願ってしまう。幼稚かもしれない。そんなのエゴだしわがままだ。でもそう思わずに済ますことができない。ちょっとまだ難しい。もう25歳なのに。グラスの中の氷はとっくに解けてなくなっているのに。

 長く続く関係なんてそうそうあるわけではない。あの人も遠くに行ってしまった。目の前のこの人もいつかは遠くに行ってしまう。そういうことを——仏教が諸行無常と呼ぶこと全てを——私はいつか愛せるようになるだろうか。受け入れることができるだろうか。あるいは諦めてしまうのだろうか。ついには疲れて何も思わなくなるのだろうか。

 毎日毎日を大切にしないといけないな。一つひとつの会話を大事にしないといけないな。なんて当たり前のことを思う。でもまたすぐ忘れてしまう。それはまた別の悲しさだと思う。

f:id:shige_taro:20210924015931j:plain

 

 

【今日の音楽】

youtu.be

 

この記事を読んだ人にオススメ

shige-taro.hatenablog.com

shige-taro.hatenablog.com 

shige-taro.hatenablog.com