シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#21 ワインズバーグ発ミスド行き

 

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 今日はなんとか学校に行けた。でも明日の教科のテスト勉強はどうも終わりそうになくて、昨日から困っている。

単位を落とすわけにもいかないから、ダメもとでいいから勉強をしようと思っていた。早く終わらないかなーと思いながら2限を受けて、まったく授業に集中できないままにチャイムが鳴って、それからキャンパスの解放教室で勉強することにした。しかしリュックの中身を出して私は愕然する。明日の教科のファイルがない。どうも家に置き忘れてしまったらしい。焦る。せっかく一時間半もかけて学校に来たのに家に帰らないといけない。大学で勉強をしようと思ってたくさんノートと本を持ってきたのに肝心のファイルだけがないのだ。あんまりだ。「ああ、自分のばかばかばか」心の中で叫ぶ私。ボールペンを壁に投げて机をひっくり返し、悪態をつきたくなるけれどしかしここは解放教室。私は落ち着いた風を装いながら部屋を出てバス停に向かう。入室してすぐに部屋を去る私を何人かがいぶかしんだ目で振り返る、そんな気がする。まあくよくよしていても仕方がない。帰ろう。

 

 

 キャンパス間を移動するバスは混んでいて息苦しかった。いつもキャンパス間を無料で移動するバスに乗り、別のキャンパスを経由して家に帰る。クーラーが効いていて涼しいはずなのに居心地が悪い。他人がすぐそこにいることに緊張する。息が浅くなっているのがわかる。窓を破って外に飛び出したくなる。私は空想の中でアスファルトの灼熱と混雑したバスとを天秤にかける。そうして自分の匂いと汗とオーラを消してただひたすら目の前にある小説に没入しようと努力する。シャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ、オハイオ』。

 

 

 家に帰って勉強する前にご飯を食べよう、そう思って食堂に入った。「腹が減っては戦が出来ぬ」そうおばあちゃんも言っていた。さっきまでいたキャンパスとは違ってこっちのキャンパスは和気あいあいとしている気がする。きらきらした若さが眩しい。そうたいして年の差がないはずなのに12歳下の彼らを見ると自分が年を取ってしまった気がする。幼稚な部分を抱えたまま老成してしまった自分のいびつさが痛々しいと少しだけ思う。きらきらして眩しいと思う反面、私は彼らのことを心のどこかで見下している。そんな無駄なプライドもどこかにぶん投げてしまいたいと思うけども捨てきることが出来ない。もどかしい。プライドも幼稚さも自分では自覚できなかった頃は楽だっただろうなと思う。でもその頃の私が日々をどう過ごしていたのかは思い出せない。

 

 

 食堂の看板メニューである麻婆丼を食べながら小説の続きを読む。ラストの数編を一気に読み切った。主人公のジョージ・ウィラードを乗せた汽車は、彼が育った田舎町を出て新たな冒険へと彼を連れて行った。それがラストシーンなのだが、その冒険には何の保証もないようであった。ジョージはまだ18歳だった。小説の舞台となった19世紀の終わりのオハイオ州のスモールタウンでは、大人になる年齢が私の周囲の世界より数年早いようだ。

 左手に文庫本、右手にスプーンと言ったスタイルで30分過ごした後、大学の坂を下りた私は主人公のように駅に出た。ジョージとは逆に私は家に帰る。故郷を去った彼とは違って私は22歳になってもいまだに育った町から出ることが出来ない。少し歯がゆい。もしかしたら2018年の関西圏に生きる私には故郷を去るということなどは必要ではないのかもしれない。もしかしたら大人になることさえも。

 

 

 ようやく最寄り駅について自転車に乗って家路を急ぐ。とここで気づく。頭が真っ白になる。

「あ、家の鍵わすれたわ」

 ポカーンとした。もう最悪だった。いつもなら歌いながら下る坂道も何も歌えずに終わって家に着いた。そこにあるのはマイスィートホームなんかではなくてただのコンクリートの塊だった。二階のテーブルのあるあたりを見上げて「あそこらへんに鍵があるんだけどなあ」と恨めしく思った。結局ミスドに行くことにした。蝉ばっかりうるさかった。

 

 

 途中のドン・キホーテで制汗シートを買った。来週からの台湾滞在に一役買うにちがいない。8月をまるまるひと月使って私は台湾に行く。少し緊張している。ドン・キホーテで売られているものは「安い」と刷り込まれているから無思考で買ってしまう。ここのドンキは昔から治安が悪くて、地域の悪ガキが地下駐車場で喧嘩を繰り広げていることで有名だったけど本当のところはどうだったのだろう。小学校6年生の時、同級生の何人かがドンキの駐車場で他校と喧嘩をしてきた、と自慢をしていたけれどかなりの割合の嘘があった気がする。

 レジを出たところで「うまい棒」を配っているお兄さんがいてその人に話しかけられた。よく見るとお兄さんは二人いてどちらも赤い服だった。何かの客引きなのだろうと思ったけど何の客引きかわからなかった。

「今質問に答えていただいた方にうまい棒をお配りしているんですよー」少し怖かったけれどし、悪徳商法だとしても最悪逃げたらいいやと思ってうまい棒をもらうことにした。牛タン味だった。

 

「それでは一つ目の質問行きますね? いま10代ですか? 20代ですか?」

 

 多分彼は私がマーケティング対象に入っているのかを聞き出したいのだと思うのだけれど、クイズ形式で質問をする彼のガッツに感心してしまった。「20代です」と言うと「なるほどーーー」とリアクションをしてくれる。そうしてまたうまい棒をくれる。今度は焼き鳥味。牛タン味とか焼き鳥味とかいろいろ種類があるんだなあとちょっと感心した。うまい棒を作る会社の人はすごいなあ。

 次に来た質問は、私が下宿生か自宅生かどうかを聞くもので、私は下宿生だと答えた。「なるほど、いいですね!」と笑顔で言う彼はようやく本題に入って格安スマホとポータブルWiFiのセールストークを始めた。ただ、私はあんまり必要とは思えないのには全く不要なので断った。最近別の格安スマホに契約をしたことと、YouTubeを視る時は家ではなくてWi-Fiのある大学へ行くと言った。「なるほど、そうですか。ありがとうございます」と言って彼はもう一本うまい棒をくれた。食べたことのあるコーンポタージュ味だった。

 実はうまい棒はあんまり食べたことがない。初めて食べたのは町内のクリスマス会に参加した時だった。たぶん12歳とか11歳とかそこらへんで、おいしいともまずいとも思わなかった。ただ脂っこいと思った。高校3年生の時、隣の席の女の子が誕生日に18本のうまい棒をもらっていた。そのうまい棒を近くの席の友達と一本ずつもらって食べた。平和だった。

 

 

 よくわからなかった。彼はおそらく私とそう年が変わらなくて、でもドン・キホーテのレジを出たところの暗い廊下でセールスをしている。あんなにさわやかな彼が脂っこいうまい棒を配っているのも、勉強をするために私がミスドに行ってコーヒーを飲みにいかないといけないのもよくわからなかった。大学を卒業しないといけないことはわかっているけれど、大学の勉強がどういう風に自分の人生に役立つのかさっぱりわからなかった。

 ただ自分のいるこの場所が自分のための場所ではないような気がした。自分にふさわしい場所はもっと他にあるはずだし、自分はこんなところに収まりきる人間ではないと思った。それはかなり傲慢な感覚だということも私にはわかっている。そしてそういう風な傲慢を抱えた人間——同級生の何人かや歴史上の人物、特に殺人犯や独裁者——がどういう風に評価されていて、どういう末路を送ったかを私は知っているつもりだった。しかしこのところの私はそんな肥大化したプライドに振り回されている。いい加減目を覚ませ。

 

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 『ワインズバーグ、オハイオ』には何かしらの欲求を持ちながら、その欲求を”正しい方法で”昇華させてうまく自己実現できない人々が描かれていた。彼らの何人かは自分の欲求が何なのかを探し当てることができず、何人かは探し当てることに疲れ果て、何人かは間違った方向に欲求をぶつけてしまう。

 そういった”いびつな”人間たちの悲しみや寂しさを読んで私はやり切れなくなった。私のいる場所は19世紀末のオハイオ州とは状況が随分違うようで結局は一緒なのかもしれない。”正しい方法で”自分を表現するにはどうしたらいいのだろう。わからないし、本当のところ正解なんてないのかもしれない。今ははとりあえず明日の勉強をしないといけない。

#20 雨の日に考えたこと

 

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 タイの洞窟にサッカークラブの少年とコーチが閉じこめられているらしい。一人の誕生日を祝うために洞窟に入ったら出てこれなくなったという。一度入った洞窟から出れなくなるなんてそんなわけあるかよと思ったけれど、洞窟に入った後に大雨で水位が上がって出られなくなったのだという。頭の中でもうおぼろげになってしまった高校地理が正しければ、タイは熱帯モンスーン気候だったはずだ。雨期には日本人が想像できないくらい雨がふるのだろうか。

 世界各地から彼らに応援の声が届いている。チリの鉱山事故の生還者も、ワールドカップの戦いを終えた日本代表も動画やコメントでメッセージを送っていた。ロナウドをはじめ、欧州の選手もメッセージを送っていた。洞窟の避難場所にどうやって届くのかはわからないけれど、彼らの勇気になればいいなと思う。私は洞窟内に取り残されたことがないけれど、それでも暗闇にずっといないといけない辛さは想像できる。

 

 

 日本もこのごろずっと雨だ。かなりの大雨で各地で被害が出ている。どこどこで人が流されたとか、なになに川が氾濫したとか、そういうニュースばかりだ。嵐山の渡月橋も雨で通行禁止になっていた。常寂光寺も竹林も大丈夫だろうか。嵐山に住んでいる友達から送られてきた桂川の写真には濁った水と所々に水面から顔を出した木々と建物しか映ってなくて心配になった。ツイッターを開くとやっぱり雨のことをみんな呟いていた。はじめは大学の坂を流れる水がまるで川のようになっている動画や休講情報、ネタツイが多かったのだけど、段々「家の近くの道路が冠水した」とか「広島の実家がやばい」という話が多くなってきて、避難指示の情報などが出回るようになってきた。大学の授業も休みになった。家にいてテレビをつけてもずっと大雨のニュースだった。日本地図と降雨レーダーの図を山ほど見た。

 

 

 そんな大雨のテレビに飛び込んできたのは、オウム真理教信者で死刑囚の7人が死刑執行されたニュースだった。号外が配られる様子が画面に映し出され、遺族代表が会見を開き、ジャーナリストや専門家がしゃべっていた。違和感があった。「死刑執行」の文字だけが先走りしているように思った。「速報」にすることにも、号外を刷ることにも意味があるとは思えなかった。罪を犯したとはいえ、人が死んだのだ。それを「速報」とするのは軽々しいのではないかと思った。

 遺族の人が「23年以上苦しめられてきました」というようなことを言っていた。でも死刑執行で苦しみが終わるわけではないと思う。おそらくこれからも苦しむことがあるだろう。死んだ人は戻らないのだから死刑は気休めにさえならないはずだ。殺人事件が起きた後、よく遺族の「死んで償ってほしい」という趣旨のコメントが報道されるけれど、そんな単純な話ではないと思う。心の中にはたくさんのものが逆巻いていて、ようやく絞りだされた言葉だけ一人で歩いてゆくのではないだろうか。

 広島で昔、ペルー人の男が小学一年生の女の子に性的暴行を加えて殺した事件があった。段ボールに入った遺体が発見されて、一週間後に犯人が逮捕された事件。私はその時たまたま入院中で、病院の暗い部屋でそのニュースを見た。裁判では初犯なのか再犯なのかということ、そして計画性があったかどうかが争点になった。検察側は死刑を求めたけれど結局犯人は無期懲役になった。死刑を求める署名もかなりの数が集まっていたと思う。

 忘れられないのは「死刑を求めているが、被告の命も誰の命も大切なものであると次第に思うようにもなってきた」という趣旨の父親のコメントだった。そのコメントを読んで——あるいはラジオで聴いたのかもしれない——感じたことはなかなか言葉にできない。父親は裁判を通じて死刑を求めていて、署名も集めていた。立場上は被告の死刑を求めている人だった。けれど一方では「憎しみ」や「悲しみ」という言葉だけでは表現できない、まだ名前もついていない感情を山ほど抱えていたのだと思う。

 

 (※この文章を書くにあたって、お父さんのコメントをインターネットで探しましたが、確かなものは見つかりませんでした。もしかしたら上記に書いたような趣旨のコメントは記憶違いで実際にはなかったかもしれません。間違いであればコメントなどをください。繊細なテーマなので間違いがあれば訂正したいと思います。)

 

 7人が死刑執行されたという話の後には、別の裁判のニュースが流れた。去年の3月に松戸市ベトナム国籍の女の子が殺された事件だ。逮捕されたのが保護者会の会長だったのが衝撃だった。この事件をテレビで知ったのも病室だった。おばあちゃんと二人で見ていた。私はテレビを切りたい衝動にかられた。死期が近い人にそんなニュースを聞かせたくなかった。いつもならニュースについてなにか言うおばあちゃんがその時はなにも言わないのが悲しかった。テレビ画面には女の子の写真——これでもかというぐらいアップになっている——が映っていた。判決は無期懲役だった。

 

 

 タイの話に戻るけれど、残念なことにダイバーの一人が作業中に亡くなったという。海外メディアのネット記事によると、洞窟の入り口から13人のいる場所まではだいたい4、5キロぐらいの距離があるそうである。重い物資を運んで泳ぐのは訓練を積んだ人間にとっても大変のなだろう。洞窟の中だから視界も悪いのかもしれない。そのダイバーは元軍特殊部隊の隊員で、除隊後はバンコクスワンナプーム空港で働いていたという。23日に洞窟に13人が閉じ込められているニュースを聞いて、ボランティアとして救出作業に参加していたそうである。

 彼の死を無駄にしないように、作業チームはより一層救出に力を尽くすと思うし、より一層命の重みを大事にすると思う。13人はダイバーが亡くなったことを知ってどう思うのだろうか。心理的負担を減らすために洞窟の中では知らされてないだろうが、いずれ知るだろう。でもまずは無事洞窟から脱出してほしい。それから心理的なケアも受けてほしい。

 

 

 大雨はやっと降りやんで、でも列島全体で何人もの死者が出た。死者は100人を超えそうである。行方不明の人もたくさんいるみたいだし、見つかるのが何週間先になる人ももしかしたらいるかもしれない。 

 死者の数が報道される度に私は命の軽重を考えてしまう。タイでは13人を救うためにたくさんの人が努力を続けていて、1人の人が命を落とした。無差別テロを起こした死刑囚7人の死刑が金曜日に執行されて、同じ日に1人の女の子を殺したとされる人に無期懲役が言い渡された。紛争地域では——例えばシリアやイエメンでは——今日も戦闘や爆撃が起こっていて何人もの人が死んでいる。まだ全容がわかっていないけれど日本各地では何人もの人がこの週末に亡くなった。そして私は今自宅でニュースを見ながらコーヒーを飲んでいる。不公平だなと思う。

 私の住むところも、私の家族も無事だったが、それは本当に幸せなことなのだと思う。倉敷の人も呉の人も高山の人も、それから報道されていない場所の人もみんな無事であることを祈る。もちろんタイの13人も無事に救助されることを望んでいる。結局のところ私にはそれしかできない。

 

 

 しかし本当にそれしかできないのだろうか。

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#19 マッチも擦れない男なんて

 

 化学の実験でガスバーナーを使うことになった。ガスバーナーに火をつけるにはマッチを擦らないといけなかった。「シゲ、マッチを擦って」と言われて箱からマッチ棒を出したのだけれど、どうしても勇気が出なかった。躊躇していると、女の子が「貸して」と言ってさっと火をつけ、「マッチも擦れない男なんて××じゃん」と言った。私はどうしようもない気持ちになった。落ち込んでいる自分を見せるのはプライドが許さなかったので、飄々とした風を装っていた。どう見えたかわからなかったけれど、せめてもの強がりだった。

 それは高校1年生の時で、秋か冬だった。辛かった夏休みの間高校をやめようと思い詰めていたけれど、当然やめられるはずもなくてでもクラスは全然面白くなくて、放課後に部活するためだけに学校に行っていた。そんなころだった。

 悲しかったのは、しんどくなった遠因を作った一人にマッチの彼女もいたということだ。何も傷ついていない顔をして何も話さないでいることが私なりの尊厳だった。

  知ってかしらずかI君が場を和ませる言葉を言ってくれて、それからみんな実験にとりかかった。私も煮えくり返る思いを抑えてビーカーに薬品を注ぎ、実験結果をシートに書いた。化学室は薬品の匂いが混じっていつも不思議な匂いがした。担任で化学を教えているヒゲ先生が各班を見回っていた。

 

 

 今なら、と思う。今日高校時代に戻って化学教室で実験をするなら、間違いなくなんの躊躇もなく火を起こせるだろう。「マッチも擦れない男なんて」と言われても言い返すことが出来たと思うし、傷つき方も軽かっただろう。そもそも学校をやめようとも思うほど落ち込まなかったと思う。もっと面白いことが言えたと思うし、面白いことをできたはずだ。部活ももっと賢いやり方でできたと思う。当時は視野も知見も狭かったし、なにより度胸がなかった。

 

 

 高校を卒業したとき、真っ先に襲ってきたのは「やり残した」という思いだった。仲の良いJと二人で同級生の名簿をみて「この人ともっと話したかった」とか「この人と一緒に○○をしたのが思い出だなー」とか話したりした。毎日同じ学校に通って、同じ先生の授業を受けて、同じ空間で同じ空気の中に生きていたのに、卒業するともう簡単には会えなくなるのだ。高校時代を通じてほぼ常に一人で突っ張っていた自分でも、あるいは突っ張っていたからこそ、やはり卒業直後はセンチメンタルだった。そんな私をみてJはどういう風に思っていたのだろう。

 いつでも話せる存在だったのに、みんなそれぞれの道を行くことになって簡単には会えなくなる。名簿を見て、私は話足りなかったこと、やり残したことを考えていた。話せたかもしれない面白いことや結べたかもしれない関係を自分は失ってしまったんじゃないかと思うと悲しかった。ただの名簿が輝きを放って見えた。当たり前の日常が日常でなくなって、みんなは次のステップに進んでいる最中なのに、私とJはカフェに入っていつものようにグダグダしていた。みんなに置いて行かれた気がしていた。

 

 

 今高校時代に戻れたら面白いことをできたし、なんならクラスの中心人物になれた。と半ば真剣に思っているが、一方では現在の自分が当時の自分と本質的にはそうそう変わっていないとも思う。そりゃマッチは擦れるようになったし、大学にも入れた。ただ、いろんなことを知ったというだけで本質的には同じだとも思うのだ。簡単に周囲の言葉に傷つくし、些細なことで何もできなくなる。この文章だってそうだ。同じ思い出を何度も何度も反芻しているだけだ。高校の時、自分の書いた日記を読んで勝手にセンチメンタルになっていたのと同じだ。自分でもダサいなあと思う。

 

 

 卒業から数えて今年は4年目である。就活や留学、院試の準備に忙しい人もいるようだ。今の時代ツイッターがあるから何人かの同級生の動向は入ってくるけれど、みんななんだか充実しているように見える。SNSという窓はなんだか焦ってしまう。自分だけ何もできず何も変われないままで同じ場所をぐるぐる回っている。

 就活は大変そうだ。大学4回生の人たちはツイッターでも就活のことを話すことが多くなってきた。私は就活している自分も働いている自分も全く想像できない。

 

 マッチの彼女も4回生である。就活は彼女にとってもやはり大変なのだろうか。また話すことがあったら話したい。元気にしているかな。

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#18 なつみちゃん

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 靴擦れになった。ジャストサイズだと思っていたのに実際に歩いてみると案外ぶかぶかだった。靴ひもをきつく結んでもあまり効果がなかった。やはり安い靴には安い理由があるのだ。ワゴンセールとブランド名に踊らされてまた悪い買い物をしてしまった。

 

 始めて「くつづれ」という言葉を知ったのは保育所にいた時だった。たしか年中だったと思う。同じクラスのなつみちゃんが靴擦れになっていた。履いているスリッポンが足に合っていなくて、かかとのところが切れて赤くなっていた。保育士さんがなつみちゃんにバンドエイドを貼ってあげていた。私は初めて見る「くつづれ」に興味津々だった。「くつづれ」が起きる理屈がわからなくて大人に何回も質問した。保育士の先生を質問攻めにしている間に、バンドエイドを貼ったなつみちゃんは颯爽と鬼ごっこに戻っていった。

    なつみちゃんのお母さんのこともよく覚えている。お母さんが保育所にお迎えに来ると、彼女のところに子供たちが集まってくるのだった。なつみちゃんもお母さんも優しくてみんなに好かれていたのだと思う。

 なつみちゃんのもう一つの思い出は彼女のお母さんが白内障の手術をしたことである。手術前、黒目にある白い濁り——白内障は水晶体に濁りができる病気である——を見せてもらったのだけれど、確かに黒目の中にはっきりとした白濁があった。4歳の私にはかなり衝撃だった。

 ぼんやりとした記憶が正しければ、保育所で初めてできた友達だった。母が私を連れてその街に越してきた時、私は4歳になろうとしていた。初めて保育所というものに通うことになった私だが、はじめの頃は母と離れたくなくて毎朝泣いていた。本当におんおん泣いていた。母も辛かったはずであるが、働かなくてはならないから泣く泣く私を預けていたのだと思う。そんな私に最初に話しかけてくれたのがなつみちゃんなのだ。

 

 

 次第に保育所にも慣れて、友達もたくさんできた。遠足に行ったり、プールで泳いだり菜園でピーマンを育てたりしてたらそのうちに卒園式がきた。「みんなともだち~~♪♪ ずっとずっとともだち~~♪♪」みたいな歌を歌って、みんなそれぞれ小学校に進んだ。私がアルバムに書いた「将来の夢」はサッカー選手だった。当時日韓ワールドカップが大盛り上がりでみんなサッカーに夢中だった。ベッカムのツンツンにあこがれて床屋に行ったけど「ベッカムにしてください」と言うのが恥ずかしくて、結局稲本の髪型にしてもらった。だが鏡を見てもちっとも稲本ではなかった。稲本になるには髪色も変える必要があった。

 写真を撮られることが何よりも嫌いな子供だった。行事の度に大人は私の写真を撮りたがるけれど、どういう顔をカメラに向けたらいいのかわからなかった。「笑って」と言われる度に子供扱いをされている気がした。理由もないのになぜ笑わないといけないのか。写真を撮ることは別に笑う理由にはならないと思っていた。そんな気難しい性格のせいで当時の私の写真は数が少なく、硬い表情が多い。

 卒園式の後、みんなは担任の先生と一緒にツーショットを撮っていた。母に先生と写真を撮るか聞かれた時、私は断った。そのせいで奥田先生と私の写真は残らなかった。少し残念である。式の後、みんな思い思いにお庭での時間を過ごし、三々五々家に帰った。私たち仲良し6人組は親達と共に公園に集まって少し遊んで、それから別れた。

 私たち6人はこれから3つの小学校に分かれるのだった。私とリョウは同じ小学校に行くことになっていた。他の4人は別の学校に行くのだった。「同じ市内だし、いつかまた会える」と思っていたけれど結局リョウ以外とは最後まで会えなかった。その後、私はその街から引っ越すことになり、今に至る。リョウと最後に会ってからもう10年になる。隣の校区の住んでいたなつみちゃんとは卒園以来一度も会っていない。

 

 浪人の時に偶然なつみちゃんの名前を見かけた。大学別の模試の結果が返されて、文学部志望者の成績上位者のところに私の名前が載っていた。嬉しかった。続いて友達の名前を探していた私はそこに保育所の同級生の名前を発見したのだ。正直「なつみ」という名前もそう珍しいものではないし、彼女の苗字もありふれたものなので同姓同名の別人かもしれない。けれどもその名前を見つけた時、私は少し感動した。初めて見た靴擦れもなつみちゃんの足もいっぺんに脳裏からよみがえってきて、浪人生活で疲れた心が少し安らいだ。保育所やその街のことを思い出していると勉強が進まなくて、その日は早めに家に帰ったと思う。帰りの電車で夕焼けを見ながら、もしかしたら大学で保育所の同級生に会えるかもしれないという可能性をぼんやり考えた。勉強をますます頑張ろうと思った。

 

 頑張ったものの、結局第一志望のその大学には受からなかった。だからその模試の冊子に載っていたなつみちゃんが私の知っているなつみちゃんかどうかを確かめる術は潰えてしまった。入試に落ちたことはショックだったが、しかし、なつみちゃんの件に関して言えば少しほっとしたのも事実である。彼女はもう思い出だけで十分だと思う。

 

 その思い出がまた、靴擦れのおかげでよみがえったのである。靴擦れはお風呂に入ると少ししみた。

 

 

 

#17 1974年のワールドカップ

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 真夜中、昔のワールドカップの試合映像が流れていた。1974年のワールドカップ西ドイツ大会決勝、オランダ対西ドイツ。粗いフィルムの映像がなんだか懐かしかった。

 

 今とはルールが全然違っていた。キーパーはバックパスを手で触ってもよいみたいだった。西ドイツのキーパーは手袋をしていたけどオランダのキーパーは素手だった。観客の服も今のように統一感があるわけではなくて、みんな思い思いの服で応援をしていた。試合会場はミュンヘンだった。オランダにとっては完全にアウェイでオランダがボールを持つとブーイングが起こった。

 

 アナウンサーと解説者の人の話が面白かった。有名な試合だからアナウンサーも解説者も試合の結果を知っている。なんなら解説者の一人はその試合をリアルタイムで観ていたそうだ。みんなが結果を知っているのにわざわざ実況や解説をするというのが面白かった。44年も月日が経っているわけだから、試合そのものの話よりも、フットボールの歴史や戦術の変化や、少年時代にこの試合を観てどう思ったかなどを話していた。出場した選手のその後の人生について聞くのは楽しかった。

 

 オランダにはかの有名なクライフがいて、西ドイツにもベッケンバウアーがいた。有名な選手だけれど私にとっては昔の人だ。遠い神話の人物のようでさえある。有名過ぎてほとんど静止画や文章でしか見たことがなかった。クライフはトータルフットボールと共にサッカーに革命をもたらしたし。ベッケンバウアーリベロという役割の中で輝きを放っていた。確かにそれは知っている。でも全部本や雑誌で読んだ話だ。私は一度もプレイを観たことがなかった。

 

 1974年のカメラは選手一人にフォーカスしてズームアップすることはしない。それでも二人がチームの中心で、他の選手とはちょっと違うことがわかった。試合のリズムをコントロールするためにボールを落ち着かせたり、味方へ指示を出したりする振る舞いが他とは違う。解説者の山本さんが言う。「クライフのユニフォームは一人だけ違うんです。特注なんです」 そんな馬鹿なと思ったが確かに他のオランダ選手の袖にはラインが3本入っているのにクライフの袖には2本しかない。天才だから他と違うことをやりたがるのだろうか。それとも他と違うことをやりたがるから天才なのだろうか。いずれにせよ、そういうことを許容できるのはいいなあと思った。1974年だからなのか、オランダだからなのか。あるいはクライフだからだろうか。

 

 今とはサッカーの戦術やプレーの質や速さが全然違っている。ボールを持っていないチームのプレッシャーのかけ方が明らかに弱い。74年のサッカーではセンターサークル付近で簡単にドリブルができちゃったりする。オランダが開始1分ぐらいにPKで先制をするのだけれど、そのきっかけは中盤からドリブルで持ち上がったクライフが簡単にペナルティーエリアに侵入したプレイだった。

 

 高校一年生の時に「オレンジの呪縛」という本を読んだ。オランダサッカーのファンである著者が「なぜオランダはワールドカップで優勝できないのか」ということについて書いた本である。オランダサッカーの歴史はもちろん、第二次世界大戦の影響やオランダの国民性などにも触れていてとても面白い本だった。それまで、サッカーの本と言えば小野伸二の伝記とか練習メニューについて書いた本などしか知らなかった私はすぐにその本が好きになった。サッカーに関する著者の思い出がいたるところにちりばめられていてとても素敵だと思った。著者が取材をする箇所ではユーモアにあふれた文章で相手の元選手や元監督の性格を描いていて生き生きとした文章になっていた。あとで知ったことだけれど作者のデイビッド・ウィナーはイギリス人だった。彼のブラックジョークは育った文化によるものに違いない。

 

 「オレンジの呪縛」はもちろん1974年のワールドカップ決勝についても書いていた。オランダサッカーに魅せられたイギリス人の本だから当然西ドイツが悪者だった。「美しいトータルフットボール」を体現するオランダが何回もチャンスを作ってゴールに迫るも、守り抜いた西ドイツが下馬評を覆して優勝する、という風な書き方だった。

 確かに西ドイツは荒々しくも粘り強いプレーでオランダの攻撃を食い止めることが多かった。オランダはテクニックやパスワークで相手を交わすのだけれども、最後の1対1のところでは西ドイツの選手に負けてしまう。球際の激しさやぶつかり合いを見ると西ドイツの方が勝利への執念が強いように見えた。

 一方、攻めてばかりだと思っていたオランダも意外と長い時間、守備に奔走していた。そればかりか、前半だけを見るとゴール前のチャンスは西ドイツの方が多かったように思った。この試合についてオランダがどんなにすばらしいチームであったかということがよく話題になり、西ドイツが意外な勝利を収めたと語られる場合が多いが、この1試合を観ただけでは西ドイツは勝つべくして勝ったように思えた。

 

 ただ、その大会で印象に残るプレーをしたのはオランダ代表チームだったのだと思う。彼らの展開したトータルフットボールは観客をわくわくさせ、そのトータルフットボールの考え方をもとに、近代サッカーの戦術や考え方が生まれた。コンパクトなサッカーを目指したのはオランダ人だし、最初にオフサイドトラップを考案したのもオランダ人だった。

 

 過去のことについて語られる時に、過去のことが誇張して語られることはよくある。1974年ともなると我々の世代は当然知らないわけである。私の母ですらまだ幼稚園に通っていたころである。私が40年前の試合をそう簡単に観れるはずはないので、その試合について知るには誰かの話や感想を聞く必要がある。そうなると、自分でない誰かの感想をフィルターとするしかなくなってしまう。

 ここで書いておかないといけないのは第二次世界大戦中にドイツ軍に侵略された影響で西ドイツのことをよく思っていない人が多かったであろうということである。そういう人からするとオランダ代表やクライフは西ドイツの優勝を阻むヒーローだったのだと思う。

 

 今まで「オレンジの呪縛」を読んだり、様々な人がクライフについて語るのを聞いて、1974年の決勝ではオランダとクライフが素晴らしくて、西ドイツは棚ぼた的勝利を勝ち取ったのだと思っていた。でも実際に試合を観ると、印象は違った。こういうことは往々にしてあると思う。

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#16 蛇口ひねれば五月病

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 最近涙もろい。低気圧なのだろうか。

 昔の友達が「低気圧の日は体がしんどくて頭が痛くなる」と言っていた。私は気圧がわかるほど繊細な感覚を持っていないからよくわからなかった。頭痛持ちの彼女とは毎週のように顔を合わせていたのに、いつのまにか疎遠になった。

 

「台湾本島にいつから人類が住み着いたかは定かではありませんが、考古学の研究によると、約五万年前には旧石器時代人が現れ、七千年ほど前からは中国大陸南部とも共通する新石器時代の文化が見られるようになり、およそ二千年前からは金属器を使用する文化が始まっていたと考えられます。台湾北部の十三行遺跡からは、錬鉄技術の存在を示す遺物が出土しています。十三行文化は、穀類や根茎作物の農耕も行っていたようですが、四〇〇年ほど前に途絶えてしまいました。それは、ちょうど漢人の移民が始まった頃に当たります。十三行文化の担い手がどの民族集団だったのかは不明です。」

(沼崎一郎著「台湾社会の形成と変容―二元・二層構造から多元・多層構造へ」(東北大学出版会)より抜粋。)

 

 この最後の「不明です」のところで私は泣いてしまった。自分でもびっくりした。とても悲しいことに思えた。私は本を閉じて永遠について考えた。生きる意味や人生で何を残せるかについても考えた。

 簡単に言えば五月病である。感受性の栓が抜けて、蛇口はもう全開である。ふとした瞬間にしんどくなったり、あの頃に戻ったりしてしまう。


  さっきお皿を洗いながら考えた。このお皿も誰かが作ったものだ。それを買った誰かがまた誰かに売って、誰かが運んだ。そうして最終的に祖父か祖母が買ったのだ。私が見たところ、さしたる特徴もないお皿だ。署名もない。おそらくどれだけ調べてもこのお皿を作った作者が誰なのかを確かめることはできないだろう。それでもこの皿を作った人というのは確実に存在していた。もちろん売る人も運ぶ人も買う人もいた。そういう人たちがいたからこそ、私と祖父はこのお皿にざるうどんを盛ることができる。それってすごいことだ。そうじゃないか? 

 

 たぶん永遠に残るものなんて無いのだ。どうあがいてもお皿はいつか割れるし、私は死ぬ。後の世にとってはお皿や私の人生などどうでもよいものだと思う。歴史の中で私はどう頑張っても小さな小さな一点でしかない。ゴマよりも小さい。たぶんミジンコよりも。


 そうはわかっていても、名を遺す人になりたかった。それは歴史が好きで伝記ばかり読む子だったせいでもあるし、単に有名になりたかったせいでもある。
 そして、
4歳の時に私は気づいてしまったのだ。伯母の部屋のトイレで、私は今日という日のこの一瞬が二度と来ないことに気付いた。そして、時間の流れによって自分もいつかは死ぬということも知った。それまで意識もしていなかったこの世界のルールを私は初めて知った。不条理なルールだと思った。


 なにより怖いのは、私が死んでもこの世界は何もなかったかのように回り続けることだった。そのことがただただ怖かった。私が死んでも次の朝は来るし、地球はずっと回り続ける。それが怖かった。私が死んだらみんな喪に服してほしかったし、なんなら全世界総出で出棺パレードを壮行してほしいとと
4歳の私は思った。大人たちになだめられて泣き止んだ後、何が何でも有名な人になろうと私は決心したのだ。

 

 呼んでもないのに6月が来た。来週末には雨が降りだすらしい。私はまだ五月病と格闘しているというのに。

 ゴールデンウィークに台湾に行って、帰ってきて。そこから二週間ぐらいはずっと台湾での日々のことを考えていた。台湾にまた行きたいという理由だけで台南市のサマースクールに申し込んだ。中国語を習いたいという理由だけで、図書館で行われている中国語の講座に行くことにした。午前中に大学の授業をぼけーっと受けたあと、午後は図書館で台湾の映画を観たりした。夜は台湾のロックバンド、五月天をたくさん聴いた。前述の本も図書館で借りて読んだ。台湾の歴史について非常にわかりやすく書かれていた。


 そのうちに五月も下旬になって、いろいろと考えるのが億劫になってぼーっと過ごすようになった。なんという理由もなくテレビを遅くまで見ていた。栃ノ心大関に昇進していた。栃ノ心ジョージア出身だった。そういえば初めて好きになった力士は高砂部屋黒海だった。彼もジョージア出身だった。黒海琴欧州時天空千代大海琴光喜朝青龍……… 児童ホームから家に帰ってテレビをつけるとちょうど相撲がやっている時間だった。鍵っ子の私は暗いマンションの一室で毎日相撲を観ていた。たまに家に帰るとおばあちゃんが来ていて、二人で観る時もあった。おばあちゃんの作る料理はおいしかった。相撲が終わって少し経つと母が帰ってくるのだった。

 

 そんな風に過ごしていたら寝不足になった。授業にも行く気がしなくて、大学の図書館で本ばかり読んでいた。だんだんと頭が痛くなってきた。とうとう低気圧が来たのかもしれない。どうやったら有名になれるのかは未だに謎のままである。

 

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#15 残りの回数

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 浪人の時の友達に会った。一緒に焼肉に行った。

 

 予備校って大学に入るために勉強する場所だから、よくも悪くも、勉強の話題が多くて、勉強ができるやつが一番偉かったりする。みんな志望校になんとか入ろうと頑張るし、勉強だけをしていたらよいというある意味異常な空間だった。何人か友達ができたのだけど、自分も含めて自身を抑圧して勉強している人が多かった。つらい1年間だった。

 大学に入ってからも何人かとは連絡を取っていた。しかし頻繁にしていた連絡も、次第に次第に途絶えて行った。それでも時々やりとりをしている友達もいて、今回一緒にごはんを食べた彼もその一人である。たまたま同じ予備校から同じ大学に入ったおかげで彼との関係は続いた。偶然続いた縁だけど、お互いに嫌いあっていたら続いてなかった。そういう人は大事にしないといけない人だと思う。

 

 焼肉を食べながら予備校時代の話をして、部活のことや(彼は体育会系の部活に入っている)家族のことを少し話した。最近のお笑いの話をして(彼も僕もお笑いが好きだ)そして話がなくなった最後になってお互いの恋愛の話をした。そうしてまた会おうといって大学の入り口で別れた。彼は駐輪場の前の坂を上り、私は自転車を押して下って行ったのだった。

 

 別れてから思った。死ぬまでに彼と会うのはあと何回だろうと。

 大学をこのまま進んで、彼が卒業するまでに2年しかない。順調に行けば、2年で離れていってしまう。おそらく彼は院に進学することはないだろう。運動部を続けたことを生かして就活するだろう。そして社会人になれば、そうそう簡単には会えるものではなくなるだろう。

 とすると、これから彼に会うことはもう数えられるほどでしかないのだ。不思議なことだ。3年前にはいつでも喋ることができたのに。もう毎日彼に会うわけにもいかない。お互い、勉強に部活にバイトに忙しいのだ。あと、案外話が続かなかったりもする。べたべたして気まずくなってしまうのも嫌である。

 別に毎週ごはんに行かなくてもいいのだと思う。事あるごとにお互いの近況を送りあえるような関係でいいのだと思う。

 

 死ぬまでになにができるだろう? 最近こんなことばかりを考えてしまう。大学前にある行きつけのカフェに入るのはあと何回だろうかとか、「よっ友」の彼と大学構内であいさつを交わす残りの回数とか、そんなことばかり考えてしまう。考えたからといって何かが起こるわけでもない。ただ、毎日の当たり前もいつかは当たり前でなくなる。みんな知っていることだ。実際にサークルをやめた以後、何人かは全く話さなくなった。当然のように話していた友達と当然のように話さなくなってから、私はよく、残りの回数を考えるようになった。本当に大事なものを探さないといけないと思うようになった。

 

 残りの人生は長いようで短い。

 小学校に入学したとき、6年間という時間はあまりに長くて、ほとんど永遠であるように思えた。永遠に小学校にいられるのだと思っていた。実際に、1年生の1学期はとても長くて、たくさんの出来事があった。知らないこと、新しいものばかり溢れていたから、毎日がとても長かった。私は、小学校に入って初めて「時間」を意識したのだと思う。

 次第に次第に、時間は私の体を速く流れるようになった。学習塾に通い始めた時、電車に乗って中学校に通うようになった時、バイトを始めた時、大人へのステップを上がるごとにどんどん1日は短くなった。今ではもうスマホをいじっているだけで休日が終わる。学校から帰ってきてテレビを見ていただけなのにふと見ると時計は明日が来たことを無言で告げていたりする。

 

 そう考えると死ぬまでにできることは案外に少ない。小学校のころは図書室の本は卒業までに全部読めると思っていた。中学生になっても、近くのTSUTAYAの映画は死ぬまでに全部観れるものだと思っていた。そんなことはもうあり得ない。せいぜい三浦しをんの作品を全部読み切るぐらいしかできないだろう。それも彼女の作家生命が尽きる前に私が死ななければの話だ。ちなみに林芙美子はいっぱい書きすぎているから多分読み切れないと思う。絶版とかもあるし。

 いやいやそれだけじゃないだろう。他にもやりたいことがたくさんある。一生をずっと本を読んで過ごすわけがない。しかし挙げるときりがない。———旅がしたい、ロシア語をしゃべれるようになりたい、髪の毛を染めたい、ピアスを開けたい、結婚をしたい、田舎に住みたい、小説を一本書きあげてみたい———やりたいことがたくさんある。焦らずに一つ一つやっていこうと思う。