シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

# 5偏見で見るジャンル分け

 

 前のサークルは真面目な人が多かった。読書が好きな、あるいは他の人の読む本が知りたいという何人かで、グループLINEを作っていた。LINEのノートに読んだ本についての簡単な文章を各々ぽつぽつ書くようなことをしていた。好きな小説や読んだ面白い本のことを書けるから好きだった。ジャンルに関係なく小説も評論も、自己啓発も、みんながいろいろ書くから面白かった。サークルをやめてからもそのグループには居続けて、みんなが書く文章を読んでいた。

 最近グループの中で「ジャンルごとにグループを分けよう」という話が出た。その一言を言いだした彼が、4つのジャンルに分けてグループを新しく作った。分けられたジャンルは「ビジネス・経済」「文学・評論」「自己啓発・ハウツー」「古典・教養」だった。

 正直グループの移行って面倒だなと思った。ずぼらな人間だからどんな本を読んでもみんないっしょくたに同じグループに書く方が好きだった。でも言い出しっぺが全部やってくれたのでグループの移行はすんなりいった。ただ、ジャンル分けは好きじゃなかった。

 

 なんと言ったらいいだろうか。ジャンル分けというものを突き詰めていくと人と人との距離を遠ざけてしまうように思うのだ。感覚的な話で申し訳ない。それでも20年と少しだけ生きてきて思うのだ。ジャンルをいちいち作っていくと、ジャンルの中で仲良くなって、外にあるものを排除したり無視したりしていく。そんなことはないだろうか。世の中みんなジャンルで分けられて、ジャンルごとにまとまってお互いに交流しないようになっているような気がする。

 世の中いろんな人、いろんなものがあってその中で生きている。何一つとして無関係なものはないのに「あいつとは関係ない」と思っている人があまりにも多すぎやしないだろうか。そして、そういう意見を助長しているのはジャンル分けじゃないだろうかってなんとなく思う。

 

 浪人時代、予備校に通っていた。大阪、兵庫の有名な進学校の子が身の回りに多くいて「東大に入って官僚になりたい」とかなんとか言っていた。そんな彼らはびっくりするほど知見が狭かった。もう偏見でしかないけれど「この子はお金持ちなんだろうな」と思うことが何回もあった。

 そんな中高一貫男子高出身の彼らが官僚になったとしても、彼らの視る「日本」と庶民の視る「日本」の間には相当なギャップがあるのだろうなと思った。庶民というのが何かという話は置いといて、私は彼らの感覚に驚いた。勉強ができる彼らは、京大や東大に受かって官僚コースを進んでいった。私は彼らの合格をきいて、仲の良い彼らが受かったのはうれしかったが、一方で「こんな人が官僚になるのか」と思うと少し怖かった。そういうエリートの彼らだけでこの国が作られていくとしたらそれは怖かった。

 

 人間を区別する方法の一つに、学歴で分ける考え方がある。「中卒」だとか「大卒」のだとかいう”ジャンル”によって人は区別されていく。世の中を見ていると(といっても私はまだ20そこそこだけれど)そういった区別はもうほとんど生まれた時から存在しているらしい。生まれた家の経済状況や親の学歴によって子供の将来も大体決まってしまっているように思う。そして社会に出て、いったんジャンルによって分けられてしまうと、もう二度と交わることはないように思う。

 うまくは説明できないけれど、社会を分断しようとしている力があって、その力によって分けられているせいで、我々はお互いに無関心になっているような気がする。無関心が不寛容になって、社会はどんどん優しくなくなっているように思う。

 

 

 

 ふうっ。

 LINEグループの話からつらつら書いてしまった。だいぶ偏見が強い文章だけれど、みんなはどういう風に思うのだろう。意見が聞きたいところである。