シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#196 沖縄2日目。海軍壕公園

ゆいレールに沿って流れる久茂地川
 とりあえず歩いている。とりあえず何かをする。何かをしないと人生が勿体無いように思うから。せっかく生きているのに〇〇しないのは勿体無い。せっかく沖縄に来たのにぐうたらしているのは勿体無い。ポジティブな私がそう言って、対してネガティブな私は「人生にも、旅にも、別に意味とかなくない?」なんて言い返す。
 眠い。起きたくない。ダラダラしていたら11時になった。ゲストハウス付きのカフェのモーニングも、きっと11時で終わりだ。朝ご飯を食べそびれた。でもまだ眠い。まだ寝ていたい。外は寒い。曇っている。ロシア語もっと勉強したい。ドイツ語もいい加減始めないと。「ああ、こんな風にしていつも夏休みは終わっていたし、テスト期間も終わったな。あたしゃ、子供の頃とまるで変わらないよ」なんてさくらももこ風に呟いて、いい加減に着替えて外に出る。てか、さくらももこ、なんで死んじゃったんだよ。死ぬなら、ちびしかくちゃん完成させてからにして欲しかった。

バスターミナル
 慣れない土地。地図を見ても縮尺とかわからない。徒歩50分とGoogleマップは言ってるけどそんなの信じない。とりあえず歩く。歩くのみ。雨が降ろうとも風が吹こうとも。久茂地のゲストハウスから出発して、河口、奥武山公園、そこから豊見城の丘まで。地名が面白い。奥武山と書いて「オウノヤマ」なんて読めるはずない。今帰仁とか東風平とか南風原とか。難読地名がそれはもう沢山。なんとなくパターンがあるなあと思っても一筋縄では行かない。同じ漢字の組み合わせなのに、地名と名字では発音が違ったりするのだ。そういうのが旅をしていて面白い。今から行く海軍合公園があるのは那覇市の南にある豊見城市。「トミグスクシ」と読むのが普通だけど、豊見城高校だと「トミシロコウコウ」と読むのが一般的らしい。厚切りジェイソンばりに「Why Okinawan people!」と叫びたくなる。

基本的に幹線道路は広い沖縄。おもろまち周辺
 でも仮に沖縄が琉球処分によって帝国日本に組み込まれていなければ、あるいは17世紀に薩摩藩に侵略されていなければ、きっと状況は違うのだろう。豊見城はトミグスクのままで、トミシロなんていう日本語の標準語風にする必要性は発生しなかったんじゃないかな。まあ歴史にたらればなんて無くて、だからこそ文化は面白いのだけど。てか沖縄の歴史気になるな。後で博物館行こう。
 奥武山公園はプールや陸上競技場、相撲場といった、スポーツ施設がある公園。駐車場も大きかったから地元の人はみんなでここに来て試合を見たり運動をするのだろうか。野球場は沖縄セルラースタジアムという名前だった。高校の近くにある豊中ローズ球場と似た親近感を感じる名前だ。でもこの球場で興南高校とか沖縄尚学がプレーしていたと思うと少し胸が高鳴った。球数制限の話題でいつも出てくる沖縄水産大野倫投手もきっとここで投げたことがあるのだろう。もうすぐプロ野球の巨人がキャンプをしに来るらしい。

沖縄セルラーは電気通信の会社
 公園の一角に島田叡という人の記念碑があった。読むと、戦時中に沖縄県知事を務めた人らしい、神戸の須磨出身で、戦火が迫ることを知りながら沖縄に赴任した人だという。スポーツマンだった彼は神戸二中時代に中等学校野球大会に出たことから、こうして野球を通じた交流が兵庫県沖縄県の間であるとかないとか、そういうことが書かれていた。ちなみに、この島田叡さんは沖縄戦末期に南部で亡くなるのだが、遺骨は発見されていないらしい。後で調べて知った。


 お腹が空いた。幹線道路沿いでサーターアンダギーと唐揚げを買った。風が強くて、店を出てすぐにレシートが飛んでいった。唐揚げを食べて気づいたのは3個頼んだはずのサーターアンダーギーが1個しかないこと。レシートがないのが悔やまれた。クレジットを使ったからいくら払ったか覚えてない。ひょっとすると1個分しか払ってないかも知れないけど、なんだか損した気分。しかも雨がパラパラと降ってくる。ついてない。目は起きていて、ゲストハウスのベッドで過ごしていたらよかったとはもう思っていない。目的地は全然近くならないけど。

 前を歩いている女の子が自分と全く同じ靴を履いている。話しかけたらどんな風になるだろう。中学生かな。小学生かな。なんて考えているうちに一緒に信号待ち。もちろん話しかけない。プーマの紺色の靴。もう2年半以上履いてる。宮崎県に行った時、履いていた靴があまりにも臭くて、旅先で購入した靴。もう靴底はツルツルだし、中敷きの下からは芳しい香り。この沖縄旅行が終わったら捨てるかも。捨てたくないけど。
 初めて買ったプーマの靴は、ゴムでできたグレー素材にオレンジのポイントがある靴だった。一目惚れして買ったあの靴が大好きで、その時から途切れずにプーマを履き続けている。グレーの靴は大学受験の頃毎日のように履いた。予備校で同じ靴を履いている女の子がいて、嬉しかった。もちろんその時も声はかけてない。「靴一緒じゃん!」なんて声かけが許される場面はかなり限られていると思うから。

坂道の途中にあったたばこ屋

公園から
 最初に沖縄に来た7年前も思ったけれど、沖縄は丘が多い。海軍壕公園のある場所は、日本軍が拠点にして戦った場所だから、当然丘の上にある。少し怖かった。あと数時間経って、きっと落ち込んでいる自分がいるだろう。
 雨がまだ降っていて、丘の上からは海が見えた。地図を見てエントランスへ。戦時中の写真がたくさんあった。富盛のシーサーの写真もあった。大きなシーサーを弾除けにして戦っているアメリカ兵の写真。
 そこから階段を降りるとチケット売り場があって、資料室と壕があった。

降りていく階段。チケット売り場と資料室はこの手前にある
 資料室にはこの海軍壕公園にあった旧海軍司令部だけでなく、太平洋戦争や沖縄戦の概要がわかるようになっていた。司令官が家族に宛てて書いた手紙も残っていて、軍人という職業以外は普通の人なのだなと思った。

 階段を何段も降りて壕へと向かう。450メートルほどあった通路のうち、公開されているのは300メートルほどということだったけれど、実際にはもっと広く感じた。ただ、展示に書かれているように数千人の兵士がここで寝起きするにはあまりにも小さすぎると思った。立ったまま寝た話や通路に寝た話が展示に書かれていた。この場所は軍の拠点で、沖縄の各地にあるガマと違って一般の人はここには来れなかったみたいだ。避難場所ではなく戦闘が行われた場所だから、迷路のように通路が伸びているのも納得だった。出口もいくつかあるようで、そこから出撃したという出口に立って当時のことを考えていたら悲しくなった。溝を伝って水がチョロチョロ流れるのはきっと78年前も同じだっただろう。

この部屋が一番怖かった


 5ヶ月かけて兵士が掘ったという通路の壁に触ってみる。何人もの人がここで自決して、戦後になってたくさんの遺骨が収集されたことを考えると、手のひらからは土以外の匂いがある気がした。
 そんなには落ち込まなかった。ただただずっしりと重いものが心の中にあって、この気持ちをどうしたらポジティブなものに変えられるかどうか考えていた。
 そのまま来たバスに乗って街へと戻る。バスが来る。ICOCAは使えないから乗車券を取って座席に座る。外は灰色の景色。

 
 
 
【今日の音楽】
※私にとってショスタコービチの7番は反戦の音楽です
 
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