シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#188 秋が来る


 秋になった。でもどのタイミングで秋になったのかはやっぱりわからない。
 北大阪にある学校(中学校と高校は同じところに通った)にいた10代の頃、秋を感じる暇などなかった。気づいたら桜の葉が紅色に染まっていて、そして茶色になり散った。住んでいる街には夙川公園という桜の名所があって、川沿いを海まで歩きながら赤い葉っぱを集めて本に挟んでいた。

 いつも気づかない間に秋になり、すぐ冬になる。最後まで半袖を着ていた部活の先輩が長袖を着るようになったり、駅前の銀杏が色づいたり、ふと見上げた鰯雲が綺麗だったり、そういう「秋っぽさ」をこの時期いくつも目にするのだけれど、「はい! 今から秋になりました!」みたいな劇的な瞬間はいつの年にもなかった。いつもなんとなく秋が来て、それを受け入れてきた。昔の人は律儀に、暦の中にいちいち立秋とか秋分を挟み込んでいて、偉いなあと思う。でもつむじ曲がりの私は「今日から秋です!」とカレンダーに言われても「はいそうですか」とはならない。秋にしては暑いと思ったり、寒いと思ったり、感じ方はその時々で変わる。それに場所によって秋に対する感覚も違う。
 
 関西にいた頃、秋はいつも気づかないうちに来て、去って行った。それは、中学から大学にかけての自分に、秋を感じる余裕がなかったからかもしれないし、関西の秋は本当に短いのかもしれない。
コートなしで外を歩けるのはもうこれで最後という時期が好きだった。ひんやりした空気を肌に感じながら、つむじ風に巻き取られる落ち葉が綺麗だと思い、暗くなる道を重いリュックを背負って駅まで喋りながら歩く。駅前の国道はいつも混んでいて、車のライトが眩しかった。毎日歩く道を毎日歩くチームメイトと歩いたあの頃。

 好きなソ連映画に『秋のマラソン』というのがある。大学にいた時、ロシア語専攻のゼミで観た映画だ。翻訳家で大学教授の主人公が秋のペテルブルクを走り回る話だ。中年に差し掛かった彼は人生の「秋」にいる。妻とは別に、若いタイプライターの女の子と付き合っているし、出来の悪い同僚も助けてやらねばらない。彼女らに求められるまま、主人公はペテルブルクのあちこちを、文字通り奔走する。頭も良くてかっこいい主人公が、人生の秋の中で疲れ果て、哀愁を滲ませていく。全てを拒まない彼の人生はひどく大変そうに見えるけれど、スクリーンを通して見れば喜劇なのだ。
 画面に映るペテルブルクの秋は、私にはもう冬に見える。フィルム映画だからか(1979年の映画だ)通りは濡れて冷たく見えるし、主人公が朝帰りするシーンも日の出が遅いせいか全体的に青くて寒々しい。「いや、秋じゃなくてもう冬やん!」と何度となく突っ込みたくなったけれど、授業中なので我慢した。
 


 ロシアの服飾史の授業が好きだった。先生は新潟出身で、演劇を中心としたロシアの芸術が専門だった。ある授業で、ゴーゴリの「外套」をみんなで読んで感想を言い合った。無欲で冴えない、およそ小説の主人公としては似つかわしくないような下級役人と、彼が唯一こだわりを持つ外套の話だ。「外套」とロシアの服飾について一通り話した後、先生は寒い地域において冬に着るものがいかに大事かという話をした。授業に出席していた札幌出身のSさんと先生が話す雪国の冬について思いを巡らせながら、雪の降らない関西の私は教室の後ろの方に座っていた。それは後期の授業が始まってしばらく経った頃で、ちょうど今頃、11月の初めだった。
 
 もうちょっとできっと秋も終わる。冬が来る。でもいつ来るのかはさっぱりわからない。
 
【今日の音楽】

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