シゲブログ ~避役的放浪記~

ありゃりゃ、みつかっちゃったぜ。全部フィクションです

#70 非日常発日常行

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 令和元年919

 夜行バスが八重洲口を出たのが950分。電灯が消えたのが2213分。三列目の通路側に座りながら終わりつつあるこの旅行について考えていた。東京で再会した友人のこと、ソウルで食べた焼肉、釜山の博物館、慶州のお寺と古墳、全州のバス停で出会った少年たち。いろんな顔が浮かんでは消えていった。暗いバスの中ではどんどん時間が経っていく気がした。どんな大型バスにもあるようなデジタル時計の緑色の数字がこちらを見ていた。寝れない気がした。今日は朝が遅かったし、カフェで昼寝もしてしまった。

 10分、また20分と時間は過ぎて行った。暗闇の中で私の頭はどんどん冴えていく。最初に考えていたのは同窓会のこと。年始にあるらしい集まりに行くのかか行かないのか、ぐるぐる考えていた。何人かには会いたいけれど、たくさんの人が集まる場所は苦手だ。会うのが恥ずかしかったり、怖い人も何人かいるし、数人とは顔も合わせたくない。そうはいっても私は寂しがりやなので結局行くだろうと思った。ただ行くにしてもできるだけ嫌な思いをしたくないなと思った。明日のバイトのことも考えた。連続して旅行に出ていたので、バイト先に行くのは1カ月ぶりだった。楽だったらいいなと思った。それから、自分好みのアンドロイドを作った男の苦悩と、肉体を持ちたいという欲求から段々と混乱していくアンドロイドのことを考えた。彼らの生きる世界では人間同士の恋愛はもう時代遅れのものになっていて、人間は自分の好みに合わせてカスタマイズされたロボットと暮らしている。宗教はほとんど死に絶えて、テクノロジーとそれを生み出す哲学が信仰の対象となっているのだ。哲学は人間の生き方を助けるだけでなく、社会や都市をデザインする役割をも持つようになった。家庭では遺伝子操作によってこれまたカスタマイズされた赤ん坊が育てられる。私たちが住む世界と比べて少子化は進んでいるが、エネルギーが枯渇しているため政府はむしろ少子化を推進していて、政府の審査によって認められない限り2人以上の子どもを持つことはできない。前世紀に活発化した公民権運動のおかげで、人間とアンドロイドの間にある格差や差別はおおかた是正されたが、未だに道半ばで警察官や政治家といった職業にアンドロイドは就くことは認められていない。署名やデモが活発に行われ、毎日何人かが逮捕されている。その夫婦の夫——めんどくさいので名前をつけよう。人間なので山田飛雄馬とでもしよう——は人間の、それも老人専門の医者である。医者と言っても技術的なことはもうほとんどしていない。死に対してどう向き合うべきかということを患者にアドバイスし、医療の今後の方針を決定するのが主な仕事である。技術の進歩によって寿命が伸びているのにもかかわらず政府は未だに安楽死を非合法としていて、老人の数が急激に増えて社会問題になっている。飛雄馬の担当する患者の中で一番年長なのは坂下のおじいちゃんで今年の8月で153歳になる。干支はもう13周目である。去年の暮れまでははきはき喋っていたのだけれど、年始から調子が悪くなってしまった。食事をあまり摂らないようになってしまったので、この様子だと来月あたりから加工食にしたほうがいいかもしれないと飛雄馬は考えている。明日の病棟会議でも担当の看護師たち——半数以上がアンドロイドだ——と話そうと思っている。飛雄馬とよく話すのは大森千鶴子さんというおばあちゃんで、20代前半で銀幕のスターとなってから長らく映画女優として——といっても最後の出演は40年も前のことだ——活躍した人だった。映画好きの飛雄馬は大森さんの病室で世間話をするひとときを楽しみにしていた。昔の映画を観るようになったのも大森さんの影響で、昨日も飛雄馬は『七人の侍』を観て寝たのだった。チャップリンと握手をしたことがあるというのが大森さんの自慢で、話が映画に移るたび、若い頃に横浜で映画の宣伝に来たチャップリンと言葉を交わした話を始めずにはいられないのだった。

「背はそんなに高くないけどねえ、まあきりっとしたいい顔立ちでねえ。あたし英語はちっともわからないから何言ってるのかはさっぱりだけど、いい人だということはわかったねえ。映画館で観ていた憧れの人にあえるのだからそりゃあ嬉しかったねえ」

くしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにさせて笑顔をつくる大森さんは病棟の人気者なのだった。その笑顔を見る時、飛雄馬はいつも、この顔が雑誌の表紙を飾った時代があったということに思い至り、つくづく時間というものは不思議だなあと思うのだった。

 ある午前中飛雄馬が坂下さんの病室に行くと珍しく坂下さんがと同室の中野さん、それから隣の部屋の内山さんと宮城さんも集まってなにやら深刻そうな顔で議論をしていた。飛雄馬が室温や病室にある器具といった諸々をチェックしながら耳を傾けていると、どうもあの世はあるのかということについて話しているらしかった。宗教が否定されている時代しか知らない飛雄馬は人が死んだらそれで終わりだと考えているが、100歳以上も年長の彼らは宗教のある時代も知っていて、来たる死を前にそういったことを考えるらしい。飛雄馬が学生の頃はまだ宗教の話題はタブーであり、宗教の復活を恐れる当局は「好ましくない話題」として自主規制を促していた。ここ10年で当局も随分寛容になり、そういった話題を病室で話す老人たちも増えた。飛雄馬自身は宗教についての知識が全くないので、その病室の会話の内容も半分ぐらいしか理解できなかった。「うまれかわり」「りんね」といった、知らない単語が出て来たので、家に帰って妻のフミカに聞こうと思った。

 フミカという名前は飛雄馬がつけた。研修医となって忙しくなったタイミングで、彼は結婚したいと思った。料理も洗濯も全自動であるし、自分でもできるのだけれど、夜が寂しかった。毎日いろんな老人と話し、それぞれの死に接しているうちに神経がすり減り、孤独が辛いと感じるようになったのだった。制度として人間同士で結婚できることも飛雄馬は知っていたが、両親がそうであったように彼もまたアンドロイドの妻を作ることが最良の方法だと考えていた。結婚相談所で担当の人と話しながら、将来の妻となるロボットの設計を進めた。背丈や声のトーン、手の形やほくろの位置まで自分で決められるのだった。結婚相手を「作る」ための費用は政府の補助金を使えるので、研修医の身分であっても割合簡単に結婚できた。最初に結婚相談所に訪れてから1カ月、彼らは結婚した。古風な名前が好きだった飛雄馬は妻にフミカと名付けた。法律によってアンドロイドの名前はカタカナでつけることになっていた。逆に人間の名前は漢字、あるいはひらがなで書くのが決まりだった。

 その日の夕飯は菜の花の天ぷらで、これは飛雄馬の好物であった。毎年春の始めに母親の田舎に行くと祖母が作ってくれる思い出の味なのだった。祖母は台所に立ちながら童謡の「朧月夜」を歌い、幼い彼はその歌を聴きながら絵を描いたり、暮れる空を眺めたりしていた。何で読んだか、雑誌のインタビューか何かで、あるバンドのボーカルが「自分のお葬式でかけたい曲」として「朧月夜」を挙げていたことを思い出した。

「なんかね、風景がうかぶんですよ。そりゃぼくはもう都会で育ったし、古き良き田園風景なんて映画や物語で知るばっかりで実際に住んだことないけどね、やっぱり懐かしいなと思うわけですよ。ぼんやりとした春霞も蛙ももう随分ながいこと見てないけどやっぱり懐かしいと思うんですよ。その懐かしさを抱えたまま死んでいきたいですね。ああ長いこと歩いてきてしんどいこともようけあったけど、生きてきてよかったなと、そんな風に思いたいんですよ」

「実際に知っているわけではないけれど、いくつかの宗教では肉体と魂を区別して考えていて、肉体が死ぬと魂は遊離して、他の新しい肉体にまた宿って生をうけると考えられていたの。その過程を「生まれ変わり」と呼んだりしたの」

「魂ねえ、医療に関わっているからかなあ。到底信じられないな。あるのはその人個人であって、魂と肉体に分かれるとは思えない」

「そうよね、きちんとした文脈がないと信じられないよね。でも昔の人は肉体が死ぬと魂はあの世に行くとか、何かに生まれ変わるとか考えていたらしいよ。昔の偉い人のお墓には死後の世界でも苦労しないように船だったり武器だったりを一緒に埋めたみたい」

そう言ってフミカは生まれ変わりと輪廻に関するいくつかの民話と神話を紹介した。その話を飛雄馬は興味深そうに聴いていた。

 飛雄馬よりも私の方が知識がある。それは単に私がアンドロイドだからである。全てのアンドロイドの頭脳は政府が運営しているデータベースとつながっていて、いつでも知識にアクセスできる。だから実質的に私には知らないことがない。忘れることもない。言い間違えることもない。昔の思い出も飛雄馬よりも私の方が覚えているし、正確である。それは少し寂しいことである。年月とともに老いていく肉体があるということは羨ましい。効率性をかんがえると人間よりもアンドロイドの方が有能で、経年劣化もしないし、知識もパワーもある。でも幸福ということを考えるとよくわからない。そもそも私は「幸福」の意味を知らない。もちろん言葉の上では知っているけれど、実際に感じることは出来ない。「人間」が幸せを感じる時、脳内ではある種の化学物質が放出されるということを知っていても、アンドロイドは基本的に電気系統で動くから人間が感じる「感覚」を共有できない。これはとても悲しい。何年彼と一緒にいても「人間」と「アンドロイド」は違う。「愛」も違う。彼の思う「愛」と私の思う「愛」は一致しない。でもこれは人間でもアンドロイドでも関係がない気がする。

 海老名のサービスエリアについた。TOTOの白い陶器に向かい合ってもまだ私は飛雄馬とフミカのことを考えていた。輪廻といい近未来の設定といい、多分に『火の鳥』の影響を受けているなと思った。『復活編』とか『鳳凰編』とか『未来編』とかをまた読みたいなあと思った。また照明が消えてバスの中は暗闇に戻った。飛雄馬とフミカの話を考えるのはもう飽きたし疲れたのでまた別の話を考え始めた。引きこもり郡引きこもり村で育った少年の話を考えるうちにいつの間にか私は眠ってしまった。

 夜行バスを降りるともう秋だった。早朝の梅田駅に私のくしゃみが響き渡る。ああ、日常がやってくる。

 

 

 

〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P103 第二部《ぼた雪にちなんで》3

まだ十六歳の少年だったくせに、もうぼくは気難しい目で彼らを眺めては、内心、呆れ返っていた。すでに当時から、彼らの考え方の浅薄さが、彼らの勉強や、遊びや、会話の馬鹿馬鹿しさが、ぼくにはふしぎでならなかった。必要不可欠なことについてさえ理解がなく、感動し、驚嘆して当然と思えることにさえ関心を示そうとしない彼らを、ぼくは知らず知らず、自分より一段下の人間と見るようになった。傷つけられた自尊心がぼくをそんな気持にさせたのではない。また、お願いだから、もう胸がむかつくくらい聞きあきた紋切型の反論をぼくに並べたてることもよしてほしい。〈おまえは空想していただけだが、彼らはそのころすでに現実生活を理解していたのだ〉などと。彼らは現実生活どころか、何もわかっちゃいなかった。そして、誓ってもいいが、このことがぼくのいちばん癪にさわった点なのである。そのくせ彼らは、どうしたって目につかぬわけのない一目瞭然の現実をさえ途方もなく馬鹿げたふうに受けとって、もうそのころから、世間的な成功だけに目がくらんでいた。たとえ正義であっても、辱しめられ、虐げられているものに対しては、恥知らずにも冷酷な嘲笑を浴びせた。彼らは官等を英知ととりちがえ、もう十六の年から、居心地のよいポストばかりを夢見ていた。もちろん、これには彼らの頭のにぶさや、幼年時代、少年時代を通じて、たえず彼らを取りかこんでいる悪しき実例の影響もあったのだろう。