シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#167 恋愛と就活

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 もしこの会社に入ったらどうなるだろう。就活をしていてよく思う。
 ビルの管理会社。広告代理店。飲食チェーン。別に前から気になっている会社でもない。知り合いが働いているわけでもない。本社もどこか遠い、私の知らない街にある。リクナビマイナビも、条件を入れると、私に合いそうな会社を教えてくれる。何百何千の会社たち。どのボタンを押しても、どのリンクを辿っても、誰かの人生に行き着く。その扉を開かないと会えないような人たち。その存在を感じて、でも自分の時間もお金も体力も有限だから、その扉は開けない。see you. いつかまたどこかで。
 
 小学校に入学した頃、6年生が大きく見えた。あんなに大きくなれるのだろうかと思った。「ほとんど大人じゃん!」って6年生の教室の前を通る度思っていた。自分が6年生になれる日が来るなんて想像もつかなかった。卒業までの6年という時間は永遠と等しかった。逆に、そんなにも時間があるのなら、卒業までに図書室にある本は全部読めると思っていた。学年の全員とも友達になれると思っていた。でもそんなことはなかった。
 1年生の終わりに、アズサちゃんが引っ越すことになった。学童保育に行っていた私は、放課後に遊べる時間が少なくて、だから学校が終わったらすぐに家に帰るようなアズサちゃんとはあまり遊べなかった。引っ越してどこかに行くらしいというのを知って、急に寂しくなった。寂しいのはなぜだろうと思って、私は彼女のことを好きなのだろうと思った。日焼けした顔とか、笑ったらできるエクボとか、音楽会で小太鼓を叩いていた姿とか。学級会みたいなのが開かれて、彼女を送り出した。「好き」と彼女に言ったけど、それは現在の大人が言う「好き」と必ずしもイコールではなかった。もっと話したかったとか、もっと遊びたかったとか、そういうのであって、愛でも恋でもなかった。「好き」と思えば簡単に「好き」と言えた7歳の感覚の方が25歳よりも進んでいたし自由だったと思う。「好き」と言う言葉の意味が今と違って軽かった。いつから「好き」はこんなにも大袈裟になったのだろう。

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 それ以前にも、保育所の友達サガラリョウタが引っ越したり、保育所を出て違う小学校に通うみんなと別れないといけなくなったり、そういうのの積み重ねで、永遠などないらしいというのを知った。そうじゃないと保育所の卒園式であんなに泣くわけがないと思う。ちなみにサガラリョウタは4歳の時点で力こぶを作れる唯一の園児だった。それを見てみんなですげーと言っていた。今でも小さい子が力こぶを作っているのを見ると、彼を思い出す。現在の彼のことを何も知らないのに。当時の彼の映像が鮮明に蘇る。

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 小学校低学年の頃、好きな子がたくさんいた。恋とか愛とかじゃなくて、ただ単純な「好き」だった。1番目に好きな人は誰々で、2番目は誰々。そんなことを平気で言ってた。「選べないし、みんな好きに決まってるじゃん」と思ってた。1番目に好きな子は足が早くて、短距離走長距離走もめちゃくちゃ早かった。ただ唯一許せないのが巨人ファンということだった。当時の私は熱狂的な阪神ファンだった。尼崎に育てば阪神ファンになるのが普通だろうと思うけど、その子の一家は家族全員巨人ファンで、同じクラスにいたその子の従妹も巨人ファンだった。当時の巨人は堀内恒夫が監督をしている低迷期で、応援する理由が見つけられない私は、ずっと首を傾げていた。ただ、二岡と高橋由伸はかっこよかったし、タフィー・ローズとすごい選手だなあと思っていた。あと売り出し中の若手だった矢野謙次も男前だと思っていた。ちなみにその子は中学時代にソフトボールで活躍し、スポーツ推薦で高校に入った。大学卒業後はどこかの強豪校でコーチをしているらしい。5年くらい前に会って、それっきりだけど、彼女の名前を検索したら何年か前のインターハイの試合結果や、バッターボックスに立つ写真が出てくる。

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 変な子だったと、自分の幼少期を振り返って思う。4歳にして、「今という一瞬が今しかない」ことに気づいてトイレで号泣し、7歳で『火の鳥』シリーズに熱中して考え込んでいた。年齢に不釣り合いな考えをしていたと自分でも思う。教科書に出てくる、金子みすゞの詩が好きで、みんなちがってみんないいと信じていた。流行っているSMAPの「世界で一人だけの花」を聴いて「ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」と言うメッセージに深々と頷いていた。これもきっと現在の私に関係があるだろうと思う。農民の暮らしを向上させようとした宮沢賢治の伝記も好きだった。そういうのが全部合わさったキメラ的な博愛主義を胸の中に抱えながら育った。
 
 永遠などないとわかっていたし、いつか6年が過ぎて中学校に行くだろうとは思っていた。でも後から振り返ると本当に一瞬だった。短かすぎた。気がつくと私は病院に入院する羽目になり、瞬きする間に退院し、尼崎から引っ越すことになった。中学受験の勉強が始まり、荒れ始めた教室を尻目に塾に通うようになった。全部読めるだろうと思っていた図書室の本は結局読めずじまいだったし、遊んだことのない友達も卒業アルバムを開けばたくさんいる。行ったことのない場所がまだ、校区内のあちこちに残っている。

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 幼少期に大人びていたからといって、順調に育つわけではない。「雨ニモ負ケズ」を暗唱していたかつての7歳は、18年経っても定職につかずぶらぶらしている。このままだと牛丼を単品のまま食べ、いつまでも定食にできない人生を送らないといけなくなる。なんてくだらないことを言ってる暇はない。就活をしないと。でも焦って自分を失っても意味がないから自分のペースで行かないと。なんだか自分に課すルールが多い。勝手にルールを作って勝手に縛られる。なんてバカなのだ。笑ってしまう。
 
 素敵な人と会った時に、もしこの人とずっと一緒にいられるとしたらどうなるだろう、みたいに妄想することがある。自転車で走る時によく思う。廃車になる前の原付に乗って学校に通っていた頃も、そういうことを考えていた。国道のバイパスを走りながら。信号を待ちながら。一緒に行きたい場所、観たい映画。聴きたい音楽。キャッチボールとかもしたいし、カラオケにも行きたい。カラオケでは中島みゆきのモノマネをして、ボンジョビの「It's My Life」を英語でちゃんと歌って、時々くるりジッタリンジンとラッキーオールドサンを挟みながら、コーヒーを何回かおかわりして、フロントからの電話がプルルルルと鳴って、30分くらい延長して解散。天気がいい日には山登りも行きたいし、散歩もしたい。歩きながら見つけたよくわからない神社にお参りして、コーヒー屋さんに入って、さっきの神社が、何かしらの有名な場所であったことをそこでスマホで調べて知って、2人で驚く。みたいな。まあ全部絵空事なんですけど。
 何が悲しいって、これら全てが私の頭の中でほぼ完結していること。ほんとにそう。気持ち悪いと感じた人がいたら、申し訳ない。でも私は想像の中に、自分の世界を作り上げて生きている、そんな人間です。ロマンチストと言ってくれたら嬉しいけれど、人生の中でロマンチストで居られる時間は限られていて、もうその時期ではない。早く出たい。「俺にはまだ夢がある」なんて言いながらテレビの青い薄明かりの中でビールを飲んでいるような40代にはなりたくない。

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 恋人を誰か一人に絞るとか、御社を一つに絞るとか、そういうのが私はすごく苦手。どの道を選んでもその向こうには楽しい未来があるように思うから。もちろん悲しい未来も、等しい確率で待ち受けているだろうけれど、それでもどの人生を選んでも楽しいものがあるように思える。そしてどの人生を選んでもきっと後悔する。「もしあの時違う道を進んでたら」なんて40歳を過ぎたら絶対に思う。優柔不断なのだ。別に恋愛と就活に限ったことではない。コーヒーの銘柄を選ぶのも、シーブリーズの匂いを選ぶのも同じように苦手だ。初めてワックスを買った時も、30分以上悩みに悩んだ。安くてカラフルな、ギャッツビーのラインナップから選ぶのはもう確定していたのに。紫にするかピンクにするか、はたまた水色か。決めれなかった。結局グレーを買って、未だに使い切らずに洗面台のどこかにある。マンダム社のムービングラバーシリーズ。
 
 選択肢を手元に残したままでずっと暮らしたい。俺にはまだあれにもなれる。これにもなれる。そう思いながら生きていたい。でもそれは虚しい。とても虚しい。可能性をキープしているだけで、決められない毎日を続けた結果、25歳にして未だに何にもなれていないのではないのか。書き続けたブログだけがネットの中にあるだけで、自分には何もないのではないのか。不安だ。春の陽気の中にいるのに寒い。

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 この会社に入ったらどんな未来があるだろう。この人と一緒に人生を共にしたらどんなことが起きるだろう。そういうことに思いを巡らし、ひとしきり想像の世界で楽しんだ後、現実にひき戻される。エントリーシートの締切日、物理的な距離、オンラインでの面接とzoomのリンク、帰ってこないチャット、シャツについたシワ。「好き」の中身を確かめる作業。一次審査をくぐり抜けたというメールにある「面接はスーツでお越しください」の文字。
 想像の世界に比べると現実の世界は死ぬほどつまらない。想像の世界で十分に満足してしまった私は御社へのエントリーシートを出さないでもいいかなと思い始める。LINEの通知が来て既読をつける。返信を考えている間に面倒くさくなる。小一時間前はあんなに返信を待ち望んでいたのに、あんなにウキウキしていたのに。自分の熱の冷め方にびっくりする。御社での未来を、その人との未来を、あれこれ想像するうちにすっかり疲れてしまったらしい。想像だけで飽きてしまった自分にがっかりする。
 現実から逃避するための想像だったのが、私が暗い場所にいた間に、想像の世界はすでに現実を追い越してしまった。怖い。私はまだこの世界と関わっていたい。この世界の中で普通に生きたい。
 
 
 
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#166 郵送

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◎令和4年 4月××日
 多分就活をしている人は、行きたい会社にも、そんなに行きたくない会社にもESを書いている。受かっても行かないような会社を受けるなんて意味のないことだと数年前までは思っていた。でも、練習していた方が本番でうまく行く。最初の面接が第一志望の御社で、いきなりの面接に面食らって撃沈!となるよりは、経験値をつけてから臨んだ方がいい。人生の経験にもなる。普段話せない人と話せる。だから、ESを書いてもいいかなと思うくらいに気になるならとりあえず出す。とりあえず受けてみる。
 
 中学受験を思い出す。とりあえず受ける。落ちる。受かる。そして行くことになった中学、高校。大学受験は最低限のところしか受けなかった。そもそも1年目は公立しか受けさせてもらえなかったと思う。浪人した時はいくつか私立も受けた。それでも、周りと比べたら、受験してないようなもんだったと思う。
 
 書いていて思う。就活と受験を同等に考えている自分の思考は問題かもしれない。中学受験と同じメンタルでやっていてはいけない気がする。「とりあえず偏差値の高い学校を受験しよう」みたいな意識で就活をやっていては、心を削ってしまう。受験や就活の結果だけで失敗と成功が決まるわけではないし。でもお金の重要性を今嫌というほど感じている。人を助けたい。お金があったら人を助けることができる。ウクライナの人もミャンマーの人も。子ども食堂を使わないといけない人のことも、ハンディキャップを抱える家族のために孤独な人も。全員を助けたい。今までは、人を救えるような文章を書きたいと思っていたけれど、限界があるように思えてきた。大体そんな文章がいつに完成するのか。文章の世界に居続ける限り、自意識からは抜け出せないままなのではないかという不安もある。それよりも自分が生きる手段とお金が必要だ。
 
 就活。まだESや試験の段階ならいい。文章なら書くことはある。試験も問題集を買ってまで練習することはないと思っている。問題は面接。画面の中にある誰かと話す。あるいは対面で。話し過ぎてしまう。質問されて、返す。ただそれだけなのに、容量の得ない話をしてしまう。相手の顔を見て愕然とする。「あれ、元々の質問ってなんだっけ? 私今何話してるんだろ」現実に戻って自分を責める。自分を責めているうちに次の質問。怖い。逃げずにたっぷりイメージトレーニングしないと。来そうな質問を絞って、答える練習が必要だ。
 

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 今日が私にとって行きたい会社のESの提出日。「あなたの短所と長所」「挫折の経験とそこからどう立ち直ったか」「会社に入ってやりたい仕事」「学生時代に力を入れたこと」blur blur blur blur
 別に気を抜いて適当に書いているわけではないのに、薄っぺらい文章しか書けてない気がする。焦る。そのままの自分自身を見て欲しいと思うけれど、アピールをしないといけないという気持ちもある。気持ちが先走って空回りしてないか不安になる。自信が無いのに有るふりをしないといけない。いやいつかは自信をつかまないと。自信が有るふりをしているうちに、芽生えたりするものだろうか。わからない。
 
 履歴書とESと、数枚の紙を封筒に入れて郵便局に行く。直筆で書いたら、書き損じばかりで笑う。途中から笑えない量になって、顔が引き攣る。詳細は書かないけれど10枚近く無駄にした。私の時代にインターネットがあって良かったと思う。ボタン一つで修正ができる時代。
 西暦での生年を記入する欄に、平成と勘違いして「○年」と書いてしまう。「反面」を「半面」と書き間違える。今年度が終わる時点での年齢を書かなければならないのに、現在の年齢を書いてしまう。「しんにょう」が汚い。字の癖で「る」と「な」が同じに見える。気になる。書き損じてもう一部印刷する。またもう一部。もう一部。
 
 封筒も色々ルールがある。「御中」と「様」の違い。朱色で「志望所在中」などと書かなくてはならないこと。書類を封筒に入れる向き。裏に私の情報も書く。ルールが多すぎるけど、完璧な人間なんていないのだと言い聞かせて、リクルートのページを閉じる。郵便局に行く。速達は380円。うまくいきますように。
 午後の桜が綺麗。
 
 
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Sunday Bloody Sunday (Remastered 2008) - YouTube

 
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#165 企業説明会

◎令和4年 3月××日
 企業説明会だけのために東京まで。実は少し楽しみ。留学の予定が無くなりそうなのは悲しいけど、もう背に腹は変えられない。だって就活することにしたから。そう、私は就活をしている。自分が。あのシゲが。ちょっと信じられない。
 NPOインターンとか、フリーターすることとかも考えた。ロシアに留学することが難しいならカザフスタンに留学すればいいのではないかとも思った。でも、色々考えて、やっぱり就活することにした。3、4年前と違って時間がなくなっていた。今からの数年でいくらかお金を稼いだ方が、自分の中にある不安というのは少し軽減されるのではないかと思った。不安が故に何もできない日があったり、やる気が無い日があったり嫌だった。母親が老いていくのを見て、10年後の自分を想像して、ゾッとした。不安が故に無為な時間を過ごしてしまうこと、そういうのを少しずつ無くしたいと思った。だから、そう、私は就活をすることにする。これはもう宣言みたいなものだ。

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大量消費と大量生産の社会

 火曜日、親と一緒にコストコに行った。コストコでたくさんお金を使った。700g 1800円のコーヒーを私はカートに入れた。申し訳なくなった。そして、勿体無いと思った。自分の時間も、能力も、無駄遣いをしているように思った。ジャケットを着てシャツを着た。そして駅前のカメラ屋で写真を撮ってもらった。でもよくよく調べたら就活用の証明写真に必要なのはネクタイとスーツで、ジャケットではなかった。考えたらわかる話だった。カメラ屋に交渉して撮り直しをしてもらう。家まで帰ってネクタイを結ぶ。家をまた出る。ネクタイを結ぶのが久しぶりすぎて、とても時間がかかった。2017年の暮れ以降、ネクタイを一回もつけたことがない。入学後に所属していたサークルは、良くも悪くも、大人になる手助けをしてくれるような場所だったのに、私はそれを飛び出して「大人」の世界を拒否してしまった。その選択を否定するつもりはないけれど、でも今の私ならもう少し上手くやっただろうなと思う。
 カメラマンの人は嫌な顔一つせずに撮り直してくれた。ES(エントリーシート)に貼るサイズの写真はわからなかったが、適当に選んだ。ブルーライトをカットするメガネだから、首の角度によって、私のメガネは青く光る。プレーンノットが上手くできなくて、ウィンザーノットでタイを結ぶ。写真の中にある私の顔はなんとなく不自然であるように思える。いつもの自撮りとはやはり違う。口角の上がり方が不自然。目が細い。なんだか下膨れの輪郭。セルフィーで撮る私の顔の方がうんと好きだ。
 革靴もセカンドハンドだけど買う。リーガルの高いやつ。定価の1/3程度で帰るとは言え、高い気がする。でもこういうのを一つ一つ揃えた方が自信にもなる。そういう性格なのだから買った方がいい。時計も迷っているけれど、当分はなくてもいいかなと思っている。汗っかきなので汗疹になると嫌だ。

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鍛冶橋駐車場で高速バスを降りてすぐに見る景色、東京
 ESを書く。1日に書くESはできれば2つ。1つは真剣なやつ。2つ目は練習用で、気楽に書く。火曜日には初めてのESをうんうんと唸りながら書いた。地方のとあるテレビ局。雑誌を扱う出版社。書く作業は楽しかった。特にテレビ番組や雑誌記事の企画を考えるのに時間を使った。限りある文字数でいかにして私を伝えるのか。面白そうなのはどんな企画だろうか。大きい企業ほど向いていないと思っている。人数が多いのはしんどい。部活でもサークルでもそうなのだけど、私は時々、疑心暗鬼に陥ってしまうことがあって、そういう時周りの人を誰も信じられなくなる。誰もが自分の悪口、陰口を言っているように思い込んでしまうのだ。どうしてなのかわからない。今度、心療内科の先生に聞いてみよう。
 今まで就活をしなかった理由は色々あるけれど、最大の理由は「卒業単位も取り切ってないのに就活まですると体が持たなくなる」からだったと思う。あと、普通に就活をやりたくなかった。自分の頑張りや魅力は就活では伝わらないだろうと思っていた。
 16歳からこっち、胸を張って生きることが出来なくなっている。自身無い態度なんて多分就活シーンではダメだろう。面接やESで評価され、切り捨てられ、落第のハンコを押されるのが嫌だった。そういうことが積み重ねられたら、自分は耐えきれない気がした。
 

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夜の国道2号線
「本当に自分は就活をしなくてはいけないのかもしれない」はっきり感じたのは3月8日。東広島に向かって走る夜明けの国道2号線だった。友達の住む大学のある町に行こうとしていた。「特殊作戦」とロシア政府が呼ぶ忌々しい戦争さえなければ、秋からロシアの大学院にいるはずだった。でも情勢を見るに難しそうだった。悪化することはあっても好転することはなさそうだった。加古川、姫路、たつの、相生、走るにつれて、どんどん落ち込んだ。移動している時というのはどうしてか頭がよく働く。「ああ、本当に自分は就活をしなくてはならないんだ」そう思ったのが上旬の終わり。でもそこからちゃんと動き出すまでに時間がかかってしまった。出版社も新聞社も、大手の会社はエントリーがもう締め切られてしまった。
 
 リクナビマイナビに登録する。行きたい企業を探す。ESを書く。出す。説明会を予約する。IDとパスワードがいろんなページで要求されて頭がおかしくなりそうになる。この会社も気になる。あの会社も気になる。と思ったらこの会社はエントリーが締め切られている。惜しいと思う。とっても良い選択肢であったような気がする。束の間、その会社に入ったらあり得たかも知れない将来を思い浮かべてうっとりする。くそだ。全てが××。あちらからこちらへ、このサイトから次のサイトへ。同時に開かれているタブの数がえげつない量になる。60とか70とかそんなん。イライラする。不安になる。エントリー漏れはないか。ちゃんとESは出せているのか。
 

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早朝の東京
 不安不安不安。確認確認確認。不安不安不安。確認確認確認。JR尼崎駅前の公営住宅に住んでいた頃を思い出す。鍵っ子の私は、一人で鍵を閉める。12階からエレベーターを使って降りる。地上を歩き出す。パンジーやチューリップが咲く広い花壇がある。信号まで歩く。鍵を閉めたか不安になる。不安で歩けなくなる。引き返す。エレベーターのボタンを連打する。「早く来い。早く降りて来い」と叫ぶ。ゆっくりと降りてきた鉄製の箱に飛び乗り、12を押す。ドアが開いて、降りる。3番目の部屋まで走る。ドアの施錠を確認する。もちろんドアは閉まっている。心配は杞憂に終わって私は学校に遅刻する。
 
 地方新聞が面白そうだと思って見ている。出来たら東の方に就職をしたい。東京か東北、あるは北陸。とはいっても、文章にまつわる仕事ならどこでもいい。ただ関西からは出たい。ちょっと飽きた。同じところをぐるぐる何周もしている人生は嫌だ。大学在学中、大阪や神戸を歩き回ったけれど、いつも同じところにしか行かなかった。
 見た感じ、地方新聞は紙でESを出さないといけないところが多い。エントリーできる会社がもうすでに限られているから、もしかしたら、エントリー時期が遅い会社ほど紙媒体なのかも知れない。今日の説明会は東北の新聞社だったのだけれど、郵送でESを提出しなくてはならないということだった。面倒だ。でもその分本気度が試される。読んでくれる人が確かにいるという安心感もある。昔に比べれば平等だと思う。ネットで情報が集められて、どこにでもESを出すことができる。リクナビマイナビもシステマチックすぎて嫌になるけれど、そのシステムによって救われる人もいるはずだと思う。日常の、そして住む地域の便利さを当然だと思っては、目が曇ってしまう。
 

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どこかのサービスエリア
 土曜日の夜高速バスに乗りこんで日曜に東京。ネカフェで少し寝てスーツに着替える。結局説明会に着いたのはいつものようにギリギリだった。しかも建物の入り口がわからなくて、部屋に入ったのは開始予定時刻きっかりだった。私と同じように迷子になっている人が数人いて助かった。地方新聞とは言え、有名な会社だから説明会に来る人の数もたくさんいると思っていたのに、5人しか居なくて拍子抜けした。新聞社の歴史、部署、営業、SNSやオンラインでの新聞の発信。震災時の報道について、震災後、地域の住民に対して防災や減災を呼びかけるようになったことについて。社員さんは2人いた。東京出身の人と宮城県出身の人。2人の雰囲気のおかげでリラックスして説明を聞くことができた。企業説明会も就活も、色々なことを今まで食わず嫌いしていたけれど、想像と実際とはやはり違うなと思った。私に必要なのは対話と、世界を知ることだ。不安の種は尽きないけれど。今日は東京に来て説明会を受けてよかったなと思った。

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説明会近くでは桜が咲いていた
 
 
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#164 アブラモビッチのチェルシーFC売却に思うこと

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 日本時間3月3日の未明、チェルシーFCのサイト上でロマン・アブラモビッチが声明を出した。クラブにとっての最善を考えた上で、彼は所有するチェルシーを売却することを決めたという。
 フットボールファンとして、また外国語学部でロシア語を学ぶ人間として思うところがあるので書いていきます。
 
 この1週間ウクライナの問題を世界中が注視している。国が国に侵攻し、でもそれを誰も止められずにいる。Instagramのチャットでキエフの友達と連絡をとりながら歯痒い思いをしている。武器を送る以外のことをほとんどの国はできていない。戦争が拡大するのが怖いから、下手に手出しできない。この時間にも人は死んでいく。何もできないならせめてという感じで、あるいはそう決まっているからという感じで、経済制裁が行われている。影響が出るのは政治家ではなくて市井の人々だろう。それでも制裁が行われて、留学している友達が帰国を余儀なくされている。悲しい。
 
 チェルシーのオーナーであるアブラモビッチも、資産が凍結されそうになっている。現在の彼とプーチンの関係がどの程度のものなのかはわからないけれど、彼も経済制裁の対象になるかもしれない。一方でウクライナが探している和平交渉の仲介者として彼が名乗り出てたというニュースもあった。この数日間チェルシーの今後についてネットでは色々言われていたけれど、彼が売却の意思を明らかにしたことでひとまずこの問題はひと段落しそうだ。チェルシーが経営破綻するようなこともなさそうだし、サッカーファンとしては安心。でもロシアのウクライナ侵攻がスポーツにまで影響を与えている現状がとても悲しい。チェルシー公式HPに掲載されたロマン・アブラモビッチの声明は以下の通り。
 
私の持つチェルシーFCの所有権に、この数日、メディアで憶測されていることに対して、私は明らかにしたいと思います。以前にも言っているように、私は常にクラブにとって最善の利益を念頭に置いて決定を行ってきました。それゆえ、現在の状況を見て、私はクラブを売却することを決定しました。これが、クラブ、ファン、従業員にとって、またスポンサーやパートナーにとって、最善の手段であると信じての決定です。
 
クラブの売却は、手順を省略することなく、プロセスに沿って進められます。私はクラブに貸しているローンの返済などは求めません。これは私にとってビジネスやお金ではなく、クラブと試合への純粋な情熱によるものでした。
 
さらに、クラブ売却の純利益が寄付されるように慈善財団を立ち上げるように私のスタッフに指示しました。この財団はウクライナにおける戦争の全ての被害者のためになるものです。
ここには、被害を受けている人の緊急で差し迫ったニーズを満たす重要な資金の提供と、長期的な復旧のための支援も含まれます。
 
この決定が非常に難しい決断であり、このようなやり方でクラブと別れを告げることが私にとって苦痛であることを、どうかわかってください。しかしやはりこれがクラブにとって最善策であると信じています。
 
全ての人にお別れを告げるために、再びスタンフォードブリッジ(チェルシーの本拠地)を訪れることができればいいなと思います。チェルシーFCの一部となれたのは私の人生における特権であり、クラブと共に成し遂げたことを誇りに思います。チェルシーFCとサポーターはいつも私の心の中にあります。
 
ありがとう。
ロマン
 
 やはり悲しい。イングランドサッカープレミアリーグを見始めた時、最初に好きになったチームがチェルシーだった。2009/10シーズンにプレミアリーグFAカップの2冠を獲得したチームが好きだった。ランパードドログバ、ミケルとエッシェンバラック。サッカーのおかげで様々な国を知った。フランス語を話すことができれば色々な場所に行けるらしいと知ったのは、この頃だった。フランス以外の国にルーツのあるマルーダアネルカドログバがどうやらフランス語で会話をしているらしいというのが、中学生ながら解ったからだ。中学からずっと地理の勉強が好きなのだけど、フットボールファンだから知ったことはかなり多くある。
 
 大学では外国語学部に入った。フランス語ではなくロシア語を勉強することになった。ロシア語専攻の1年生が受講することになっているロシア経済の授業があった。その授業のレジュメにアブラモビッチが出てきた。ロシア語の発音に忠実に書くと「アブラモーヴィチ」といった感じ。
 
 ソ連崩壊後に急成長した他の新興財閥(オリガルヒ)と同じように、彼もロシアの石油企業の中で頭角を表した。財閥の影響力を削ろうとするプーチンによって、国外逃亡を余儀なくされたり、逮捕されたりするオリガルヒがいる中で、彼は極東で政治家をやったり、プーチンと適切な距離を取りながら生き残った。私の知っているチェルシーアブラモビッチとは全く違っていた。
 
 それまで、私にとってのアブラモビッチは、弱小だったチェルシーを買収し、世界有数の金満チームにした億万長者だった。チェルシーが資金力に物を言わせて有名選手を獲得しまくっているのを、他チームのサポーターは、最初、指を咥えて見ているしかなかった。
 彼の成功を見て多くの投資家がサッカーにチャンスを見出し、サッカーを取り巻く環境が大きく変わった。グレイザー一家がマンチェスターユナイテッドのオーナーとなり、マンチェスターシティはUAE資本が入った。ここ10年のレスターの躍進は間違いなくタイ人のスリヴァッダナプラバ親子のお陰だ。間違いなくプレミアリーグの競争力は上がり、世界で最もエキサイティングなリーグになった。その先鞭をつけたのはアブラモビッチである。フットボールファンとして彼に感謝したい。
 
 大学に入った2016年、私はすでにアーセナルファンになっていた。アーセナルは00年代には優勝争いに食い込むチームだったのに、辛酸をなめさせられていた。チェルシーマンチェスターシティが成長したせいだった。アーセナルが下位に沈むここ数年、時々、チェルシーアーセナルのオーナーを比べることがあった。上の声明にもあるけれど、アブラモビッチのサッカー愛は本物だと思う。スタジアムに行き、試合の動きに一喜一憂する彼の姿は私と同じサッカーファンのそれだった。一方で我がアーセナルのオーナー、スタン・クロエンケからは情熱を全く感じられなかった。
 
 この10年で多くの投資家がフットボール市場に目を向けている一方、ビジネスとしてしか捉えていないオーナーもたくさんいる。残念ながらクロエンケもその一人だ。彼はスタジアムにめったに足を運ばず、お金のために欧州スーパーリーグ構想を主導し、失敗した。グーナー(アーセナルファンの愛称)の反対運動によって、スタンは構想から手を引き、彼の息子ジョシュがファンと対話するようになった。そして段々と選手獲得やチーム環境に投資がなされるようになってきている。
 
 アブラモビッチがいなくなるチェルシーファンには同情するけれど、彼のスタッフはチェルシーにとどまる。クラブ土壌はそう簡単に変わらないだろう。世界規模のチームだから売却が進まないということもないだろうし、売る相手アブラモビッチはしっかり選ぶだろうし。だからチェルシーは大丈夫だと思う。
 
 話は変わるが、グーナーだってチェルシーファンと同じ状況に陥っていた可能性もある。2018年にクロエンケはアーセナルの株を100%手に入れたのだけど、最後に彼に株を売ったのはウズベク系ロシア人の大富豪ウスマノフなのだ。ロシアの通信会社MegaFonを所有するウスマノフもやはり経済制裁の対象になっていて、ハンブルグ港に停泊する彼が巨大な船がドイツ当局に差し抑えられたりしている。

www.forbes.com

 

 2018年にアーセナルの株を売った彼は、現在エヴァートンFCに資金を注いでいる。天然ガス会社USMでビジネスパートナーとなった、イラン人実業家モシリと共に、2016年エヴァートンを買収した。USM、MegaFon、MegaFonの子会社Yota一昨日までエヴァートンのスポンサーだったのだけれど、3月1日にエヴァートンFCから出た声明によって、スポンサー関係は停止されることになった。「アーセナルファンで良かった」ということではない。一人のサッカーファンとして私は悲しい。これは、サッカーを通じて可能だったつながりが消えてしまったということだと思うので。 
 
 ロシア語を勉強するものとして悲しいのは、「ロシア=悪」と変換する人がSNSにちらほら散見されることだ。まだ現実の世界で会ったことはないけれど、自己紹介で「大学でロシア語を勉強しています」と言った時に相手から返ってくる反応が私はすでに怖い。
 
 その中で、チェルシーのオーナーとして世界から振る舞い方を注視されているアブラモビッチがこのような声明を出したことにホッとした。ロシア人だからといって全員が悪者というわけではない。当たり前のことだ。
 
 また彼は声明の中でプーチンやロシア政府が使っている「ウクライナにおける特殊作戦」という言葉ではなく「ウクライナにおける戦争(the war in Ukraine)」という言葉を使っていた。彼の生命と、これからの人生に大きく関わるだろうから、声高にプーチンを批判することはできないけれど、できる限りの声明だと思う。もちろん、既に指摘されているように「ウクライナにおける被害者」が誰を指すのか、「net proceeds(純利益と訳したが解釈の余地はありそう)」とは何のことなのか、声明の中身は少し曖昧だ。それでも声明を出さないよりもだいぶマシだと思う。
 
 これから、チェルシーの慈善財団がウクライナを支援する。チェルシーのオーナーがアブラモビッチだったからこそ、この交流が可能になった。尊敬する。サッカーを取り巻く文化は国境を越えるはずだ。というかそうあって欲しい。今回のアブラモビッチの声明で少しでも状況が良くなるように願う。
 
 
【今日の音楽】
 
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#163 ラーメンで大学生活を振り返ろう(8)

 ラーメン。拉麺と書くのが多いけれど老麺と書く場合もあるらしい。ラテン文字表記だとRamen。キリル文字だとРамэнかな。アニメやサブカルには詳しくない私でも、寿司とラーメンの話はできる。日本車の勉強もこれからしようと思う。これから大学を出てどうなるかわからないけれど、ラーメンを食べ続ける限り、会話の種は尽きないだろう。
 
 
2021年
04/15
九州らーめん亀王 箕面船場店(大阪府箕面市

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貧乏性なので無料ならば増量して食べる
 2020年と同じく2021年の前期もオンライン授業だったのだけど、感染者の少なかった最初の1週目だけは対面授業だった。最初の週の木曜日、悪友たちに久しぶりに会った。一緒に留年を共にした3人で授業に出て、会わずに過ごした年月のことを話し合った。話すのが久しぶりで、COVIDが流行ってからほとんど人と喋っていないような友人がいて、気にはなっていたけど無事でいて何よりだった。外国語学部のキャンパスは、彩都西の山奥から移転して、新しくなっていた。もの珍しさから、キャンパス内を探検して回った。2020年度はまる1年間キャンパスライフというものが存在しなかったので大学の活気というのも久しぶりで、なんだか懐かしかった。そんな風に懐かしさを感じてしまうこの状況自体もちょっと嫌だった。文法のH先生教室を出て積もる話をした後で、キャンパスから一番近いラーメン屋に行った。亀王は関西にあるラーメンチェーンで、豚骨と鶏ガラのスープが基本らしい。身近な場所でよく見かけるものの、全く行ったことがなかったので、この時が初めてだった。九州にも色々なラーメンがあるだろうに「九州らーめん」という名前はかなり大胆だと思う。コッテリで、部活帰りに食べるラーメンという感じだった。3人とも大食いの方なのでペロリと食べたと思う。
 
 
07/14
「なんだよ結局2021年も去年とおんなじじゃん」そう思って家に引きこもっていた。母親が体調を崩して、それが自分にも移って、ますます嫌になった。オンラインをいいことに授業をサボり続け、バイト先では社員さんの言動に傷つき、精神的な不調がピークに達して心療内科に行き、次の週に交通事故に遭った。トラックに追突された私はそれから40日間の入院生活に入るのだけれど、最後のシャバの飯が台湾ラーメンだった。
 台湾ラーメン、いつもどの辺が「台湾」なのか不思議なのだけど、ニラが大量に入っていて、細麺で、香りがあって、とかそういうのが「台湾」なのかもしれない。そういうのを抜きにしてとても美味しい店で、新キャンパスからも近いし、国道171号沿いにあるから車でも行きやすいかも。大学時代何回も行った。
 事故にあった時、パニックから色々考えた。「もし、大学の後で寄ったラーメン屋が、台湾ラーメンGではなくて亀王だったら、事故に遭わなかったかも」なんて冗談半分で思った。バタフライ効果みたいな。
 ちなみに台湾ラーメンGとキューズモールの間に「麺や六三六 別邸 箕面」というのがあるのだけれど、六三六とは少し味が違う。味が違って悲しくなってしまったことがあって、結局そこには数回しか行ってない。
 
 
10/30
ラーメン人生JET(大阪市福島区

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ラーメンとつけ麺どちらも美味しい
 どんな店名だよって思いながら入った。今のところ人生で最初で最後の就活試験を受けた日のことである。その日は筆記試験だったのだけれど一応ジャケットで行った。スーツとネクタイは面倒なのでやめた。そんなんだから落ちたのかもしれない。前日にSPIの問題集とかやったけど、変な感じだった。就職活動している人は偉いなあと感心した記憶。いや感心している場合じゃないんだけどね。
 福島周辺はラーメン好きにはおすすめの場所です。これだけ書いていて、私はそんなにラーメンには詳しくないんですが、でも散歩中に福島で食べたラーメンは美味しいのが多いです。この前行った「烈志笑魚油 麺香房 三く」という新福島の南側にあるお店はすごい美味しかったです。
 JETではラーメンとつけ麺を食べたことがあるのですが、どちらもおすすめです。行列ができていることが多いですが、回転が速いのですぐに入れると思います。

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福島周辺は歩いているだけで楽しい

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最近、大阪を歩くうちに高架が好きになった
 
 
11/19
島田製麺食堂 総本店(大阪府豊中市

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つけ汁は熱い石の容器に入っています
 2021年の後期は豊中駅を経由して大学に行く定期券だった。歩きたい時、豊中から園田まで歩いた。空港近くを通って猪名川を越えて、全部で1時間くらい歩く。歩いているとアイデアが湧いたり、考え事がまとまったりする。豊中から南西に歩くと北摂と大阪を繋ぐ大きな道に出るのだけれど、その角にあるのがこの島田製麺。近くにドンキホーテとかある。
 つけ麺を押し出しているのだけれど、正直、ここのつけ麺は、つけ麺の完成形だと思う。魚介形の濃いつけ汁が美味しいのはもちろんなのだが、つけ汁の熱さが逃げないように、石でできた容器が熱せられた状態で出てくるのだ。麺を無料で増量することができるのもポイントが高い。ただ、麺を増量するとつけ汁が足りなくなるので、200円追加してつけ汁も足してもらうことになる。それでも美味しい。つけ汁が本当にすごい。
 
 
12/19
ラーメン盛太郎 神田店(千代田区

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初めての二郎系
 Jとメイちゃんとラーメンを食べた。東京で。この「ラーメンで大学生活を振り返ろう」シリーズもここまで来たと思うと感無量である。大親友のJが大学を出て東京に行き、大学で東京に出たメイちゃん。ふらっと卒論もせずに東京旅行に来た私。3人とも「ゴーイングマイウェイ」な感じなので話していると楽しい。3人の中で東京が一番長いメイちゃんが色々教えてくれた。私は二郎系を初めて食べた。野菜とニンニクと油を聞かれるのが、なんか嬉しかった。油とニンニクを少なめ、野菜は多めにした。美味しいけれど重たく感じた。でもモチモチの麺は気に行った。次東京に行く時も、3人でラーメンか何かを食べられたらいいなと思う。神田は千代田区らしい。そんなのこれを書くまで知らなかった。

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ラーメンの後で行った浅草寺
 
 
2022年
01/20
麺や 輝 中津店(大阪市北区

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魚介系のつけ汁が美味しい
 この日は、卒論を提出した日だった。悪友とネットカフェで朝まで粘ってようやく提出した。清々しい朝だった。私は留学のために作らないといけない書類があって、友達と大学で合流することにして中津に出た。用事を済ませてからここでつけ麺を食べた。久しぶりの輝だった。お昼時だったので割と混んでいた。
 中津では浪人時代を過ごした。予備校の近くの輝にもよく行った。浪人時代に食べた味を卒論提出の日に食べるのは変な感じだった。アレクシェービチについて書いた卒論。もっとうまく書けたら良かったなと思いながら、食べた。寝不足でも美味しいつけ麺だった。風がすごい強い日で、地下鉄中津駅の構内に風の音が響いていた。

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地下鉄中津駅
 
 
 以上が私が大学生活で思い出に残っているラーメンである。味やお店の外観などよりも、結局私の思い出などをメインに書いた。このブログは食べログではないので、色々間違えたことも書いているかもしれないが、それは大目に見てほしいと思う。
 書けなかったお店も結構ある。散歩の途中で見つけてふらっと寄ったのはいいものの記録するのを忘れた店や、Jに教えてもらった大阪のお店など、書きたいけれどうまく書けなかった場所はいくつもある。
 またこれからもラーメンを食べるし、ラーメンを食べながら色々考えたりするだろう。というわけでこれを読んでいる人は私を誘ってください。私はコッテリよりはあっさりの方が好きです。

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一緒にラーメンを食べてくれた人、ありがとうございました
 
 
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#162 ラーメンで大学生活を振り返ろう(7)

 ラーメン。食べると落ち着きますよね。どう違うかうまく説明できませんけれど、冬に食べたくなるラーメンと夏に食べたくなるラーメンはちょっと違う気がします。基本的にさっぱりのラーメンが好きなのですが、夏は汗をかくからかコッテリの方が良いように思います。冬はスープを飲んで温まりたいので飲みやすい鶏出汁スープの方が好きかもしれません。
 今回は前回までと違って地元で見つけたお店が多いです。2020年度の後期に行った店が中心です。
 
2020年
10/15
おばちゃんとこ(大阪市北区

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狭くとも落ち着く店内
 天神橋筋商店街、知る人ぞ知る場所にあるまち中華。2020年の夏くらいから落語を聴くことにハマっていて、この日は母親と行った。いつもは安い昼席なのだけれど、今日は母親と夜席を観た。どこかでご飯を食べようということになって、商店街から一つ奥に入ったところにあるお店に入った。2020年は下宿に住んでいて、母親と会うこと自体が珍しかったから、落語を観てご飯を食べるということがなんだかすごくかけがえの無いことに思えた。コロナ禍だから余計そう思った。
 しかもまち中華に行くなんて。普段やインドカレーとか洋食屋とかなのに。あんかけのような暖かい味のラーメンを食べた。野菜がたくさんで美味しかった。餃子も絶品だった。また行きたいお店のひとつだ。ちなみに時間帯によって店の名前は「せがれんとこ」に変わる。

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大阪で落語を聴くなら天満店人繁昌亭
 
10/19
最中(兵庫県西宮市)

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鶏のポタージュのようなスープ

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外観も店内もオシャレ
「もなか」ではなく「サナカ」と読みます。地元のお店なのですが店名の由来については知りません。夜は居酒屋さんで、昼はラーメンが主のお店です。大学になってことあるごとにここには来ていると思う。休学中に友達と大阪から三宮まで歩いたことがあるけれど、その時のお昼はここのラーメンだった。高校の同級生同士でここで3人でピザを食べたこともある。ラーメンは色々あるけれど鳥ポタージュのようになっている白ラーメンをいっつも食べる。泡のようになっているスープはくどいと感じることもあるけれど、お腹が空いている時にはとても満たされる。そんなに高くないし、チャーシューも美味しいし、地元にあって良かったと思う店。
 この2020年の秋に何回か行って、すっかりハマってしまった。寒い日に食べたくなるラーメン。
 
 
11/09
鴨ふじ(大阪市北区

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シンプル
 これもJと歩いていて見つけたラーメン。この日は落語を一緒に観る予定が、二人とも集まるのが遅くて昼席に間に合わなかった。でもそのおかげで鴨だしの美味しいつけ麺にありつけたのだ。モチモチの麺と、ネギたっぷりのスープが本当に美味しくて感動したまま店を出て、感動したまま天神橋筋商店街を歩いた。またいつものように梅田まで歩き、途中の中崎町のカフェ太陽ノ塔でケーキセットを食べた。Jは割と大きな目の病気になって、コンタクトをつけることになったことを教えてくれた。いつものように2人でぼうっと過ごし、Jは気がついたらソファで寝ていた。何度となく繰り返された最高の週末だった。

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太陽ノ塔
 
 
11/30
中華 ひるね(兵庫県西宮市)

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餃子セット
 地元が誇る名店。国道43号線にあるお店。深夜でも開いているので、よくトラックの運転手が寄るらしい。だから店名もひるね。チャーシューがめちゃくちゃ美味しくて、地元の人の中にはチャーシューだけを買いに来る人もいる。従弟と一緒に行って、地元の話をしながら食べた。当たり前のように餃子も美味しくて、安くて、夢のようなお店だ。もしあなたがチャーシュー好きならぜひ、ひるねのチャーシューメンを食べてほしいと思う。全国区になるべきお店だと思う。
 
 
12/04
金龍ラーメン 御堂筋店(大阪市中央区

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立ち食いラーメン
「あっつーさんが東京に転勤するらしい」という情報を聞きつけて、ともと二人で会いに行った。あっつーさんことあつしさんは、サークルと学部の先輩。後輩の我々と3人でビッグマンで待ち合わせた。御堂筋のイルミネーションを見たいと言うあっつーさんに合わせて3人で冬の街を歩いた。ご飯をどうするのか3人でなかなか決めることができず、まん防のせいで店がなくなって消去法で金龍のくさいラーメンを食べた。立ち食いのラーメンは新鮮だったけれど、屋台ラーメンという感じの味だった。技能実習生と思われる人が2人で店を回していた。凍えながらラーメンを食べて別れた。
 それっきりあっつーさんにもともにも会っていない。またどこかで会いたい。

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恋人たちに幸あれ
 
 
2021年
03/07
麺匠 一粒万倍 河原町店(京都市中京区)

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 友達の漫才を見に京都まで行った。彼は浪人時代からの付き合いの友達。なんだかんだでよく会う。十三で乗り換えの時に偶然会ったりする。銀行員になる彼は、大学生活の間に学祭で舞台に立ったり、M-1にエントリーしたりしていたのだが、この日はその集大成となるようなライブだったのだと思う。彼の漫才をその日初めて見たけれど、とても面白くて、もっと早く彼の舞台を見にこれば良かったと思った。「表現」をしている友達が好きだけれど、いざ友達の「表現」を見に行こうとすると緊張してしまって、行けないのだ。好きなバンドもCDで聴くのはいいけれどいざライブで対面するとなんだか恥ずかしくなる。働かなくてもいいはずの自意識センサーが作動し、大変なことになる。握手会とかに行ける人はすごいと思う。一度ライブハウスで、好きなバンドHomecomingsの福富さんに話しかけられたことがある。何も話せなくて終始ドギマギしてしまって最悪だった。今より6年も前の十三ファンダンゴでの出来事だ。その時よりも幾分か成長しているとはいえ、目の前に福富さんが来たとして、現在の私がちゃんと話せるかは未知数だ。
 ライブは河原町高辻で夜からの開始だった。せっかく京都まで行くのなら、昼前に着いて四条河原町周辺を歩こうと思った。お昼、おしゃれだと噂の喫茶葦島に入ってその値段に驚いた。めちゃくちゃ高かった。コーヒーの味もオシャレすぎてよくわからなかった。カウンター席に2時間くらい座って文章を書いていたのだけれど、横にいる男女の会話が全く面白くなくて気が散った。別の場所でコーヒーを飲めば良かったと後悔した。
 葦島のコーヒーとケーキだけではお腹がもたなかったので、ラーメン屋一粒万倍に入った。木屋町の立地の良いお店で、鶏と鴨のだしが美味しかった。あまり見ない細くて長いメンマが甘かった。量はそれほど多くないけれど、でも満足して店を出た。そして友達のライブを見た。
 友達の「表現」に私は感動してしまい、四条通をずんずん河原町から烏丸まで歩いて行ったように思う。感動のあまり手当たり次第に電話して友達を困らせたのも覚えている。映画とか音楽とか本とかのせいでインプット過多になった時、私は誰かに話したくなってつい電話をかけてしまう。びっくりさせてしまった人が何人もいる。申し訳ない。

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喫茶葦島

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友達のお笑いライブ
 
 
【今日の音楽】

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#161 ラーメンで大学生活を振り返ろう(6)

 ラーメン。美味しいよね。前回までは2020年以前のCOVIDでおかしくなる前に食べたラーメンについて書いた。COVIDがやってきて、人と会えなくなって、人とご飯を食べることが亡くなった。一人で食べるなら、ラーメンを食べることが増えた。交通機関を使うのも最初は怖くて、歩いたり自動車に乗ったりすることが増えた。私のいる学部は大学2年生の終わりの試験に合格することが結構大変で、私も何人かの友人も留年をしたりして、ようやくこの年に3年生になれた。これから「大学生らしいこと」ができると思っているところのコロナウイルスだったので、なんだかすごくガッカリした。
 
 
2020年
04/01
笹の極み(福井市

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海苔をどう食べるのか未だにわからない
 福井に行く時はいつも雨。この日も中学時代の友達ハルキと一緒に高速道路を走ったのだけれど草津を越えた後からひどい雨だった。若林の家に行って、3人でマリオカートをしたり、東尋坊に行ったり、芦原温泉で足湯に使ったりした。芦原温泉には魯迅の小説に出てくる「藤野先生」の像があった。
 COVIDの話題ばかりで世界が盛り上がっていて、オリンピックも延期になった頃だった。ただでさえ中学時代の友達とは会えることが難しいのに、コロナウイルスがこのまま流行したら、次会えるのはいつになるかなあとか考えていた。良さそうなラーメン屋をハルキが探して、それがこの笹の極みだった。時期的なものもあって、なんだかしみじみする味だった。

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若林の部屋

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お菓子を買って遊ぶ
 
06/29
どうとんぼり神座 エキマルシェ新大阪店

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野菜は多め

 ここもJと一緒に行ったラーメン屋だ。この日は初めてJのバイト先のドトールに行った。モーニングを頼んだけれど、手を振ったりするのは恥ずかしいので、彼の目が悪いのをいいことに、知らない人を装った。その頃の私は髪がだいぶ伸びていて、芸人の永野とかデビュー当時のメッシみたいな髪型になっていた。それもあって、彼は最後まで気づかなかった。

 京橋から鶴橋に行き、生野のコリアンタウンを歩いた。寝不足でずっと眠かった。眠いけれどテンションは上がってて、ずっと喋り続けていた。別に何をすることもなくただ歩き、話した。途中で彼は誰かを見送りに行かないといけないから、と言って私を新大阪に連れて行った。東京に行く女の子とJがお別れの言葉を交わす間、私はベンチに座って寝ていた。詮索するのは違うなと思っていた。その後で駅の中のラーメン屋でラーメンを食べた。いや、順番は逆かも知れない。ラーメンを食べてからベンチで寝たのかも。なんだか覚えていない。
 コッテリしていて、少し私には濃い味だった。新大阪だからかスーツ姿の人が多く店内にいて、入っては出て行った。コロナ禍でも出張とかあるんだなと思った。

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Jのバイト先のドトール
 
 
08/26
しじみ処 かみあり製麺島根県出雲市

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 この夏、山陰には3回も行った。最初は一人で、次は友達と、そして最後は家族で来た。最初だけ出雲まで足を伸ばした。出雲には高校の友達がいて、彼にここのラーメン屋に連れて行ってもらった。前の年の原付での旅行でも私は彼を訪ねていて、1年ぶりの再会だった。しじみ処、と言っているだけあって、宍道湖の近くにお店があった。有名なお店らしく、かなりの人が店外で待っていて、病院と同じように番号で呼ばれていた。
私より少し大人な彼は、色々なことを知っていて、2019年の夏は日御碕に連れて行ってくれたし、この日も地域の屋敷林の名前や、家の作りについて教えてくれた。ラーメンもとても美味しかった。写真を撮ろうとするといつもふざけるので、彼の写真はいいものが全くない。

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島根県
 
 
09/15
とんこつラーメン暖暮 鹿児島天文館

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繁華街にある

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This is豚骨って感じ
 友達に運転してもらって南九州を旅行した時、最後に訪れた鹿児島で食べたラーメン。友達と別れて鹿児島駅に行き、駅前のジョイフルで一夜を明かした。山田詠美の『放課後の音符』を読み終わって、もっと早くに読めばよかったと思った。店員のおばちゃんが「サービスやから」と言ってパフェを奢ってくれた。
 次の日はミョウバンの湯という銭湯で朝風呂に入り、鹿児島市内をうろうろした。楽しみにしていた近代文学館は閉まっていて、林芙美子の資料は見ることができなかった。林芙美子の母親は桜島出身だったり『浮雲』で屋久島が出てきたりで、意外と林芙美子と鹿児島の関係は深いのである。大学に入学して以来、私は林芙美子のゆかりの場所という場所を回っているので、近代文学館にある資料を見たかったのだけれど残念だった。代わりに市立美術館で絵を観て過ごし、中央公園の芝生で昼寝をした。芝がひんやりとして気持ちよかった。曇りの日だった。
 中学校の修学旅行で鹿児島には一度来ているはずなのだが、全く思い出せなかった。かるかんやら白熊のアイスやら食べているはずなのだけれど、商店街を歩いて記憶が蘇るということは全くなかった。修学旅行の唯一の思い出の場所である水族館の近くの噴水も、9年ぶりに見るととても小さく思えて悲しかった。修学旅行の最後の日に噴水の中を友達と通り抜けたことが、中学時代のハイライトとも言える思い出なのだけれど、ちっぽけでしょぼくて、ゴミが散乱していて悲くかった。こういうことって往々にしてあるよなあとか思って、向こうの桜島を見ていた。なんの意味もなくフェリーターミナルに入ったり路面電車に乗ったりして、過ごした。最後に天文館通りの中にあるラーメンを食べた。寝不足と旅疲れのせいで感覚がいつもと違っていて、コッテリしたラーメンが食べたくなっていた。濃厚なスープが疲れた脳と体をぼんやりとさせた。水を何杯か飲んで、色々と考えてみた結果、早めにネカフェで寝ることに決めた。
 全然関係ないけれど「天文館通り」という地名はカバーする範囲が広すぎると思う。あと姉妹都市になっている関係でナポリ通り、マイアミ通り、パース通りというのが鹿児島市内にはある。

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休みだったかごしま近代文学

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桜島

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鹿児島の路面電車は線路が美しい
 
 
09/18
中華そば 桐麺(大阪市淀川区

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これもThis is 中華そばって感じ

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映り込むJ
 またこれもJと行ったお店。この日は天満で待ち合わせて春駒のぶ厚い寿司を食べた。文字通り舌の上で鮪がとろけて感動した。いつものように天神橋筋商店街を歩き、天牛書店をはじめとする古本屋をはしごし、梅田を経て十三まで歩いた。淀川に架かる橋を渡って十三まで行くのもJと何回もやった。一緒にミスドでだべるのもよくあることだった。ミスドで散々話した後で適当にラーメン屋を探して入った。思いがけず美味しくてびっくりした。十三はラーメン屋激戦区だ。同じようにCOVIDによって行き場を失ったような若者が、我々の後に並んでいた。「こんなご時世だけど、お前とはまた会うな」と言って別れた。

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春駒の寿司
 
09/29
中華そば 丸田屋 次郎丸店(和歌山市

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 やだっちと行ったお店。やだっちと仲良くなった頃にCOVIDがやって来て、せっかくの2年間ほとんど会えなかった。もっと遊びたかったなと今更思うけれど、人生に「たられば」はない。ただ日々が続くだけだ。毎日を大事にしないといけない。
 この日はドライブで和歌山に出かけた。目的の一つが「和歌山ラーメンを食べる」というものだったので、適当に見つけたラーメン屋に入った。和歌山ラーメンの特徴である「はや寿司」を食べながらラーメンが来るのを待った。はや寿司は酢で1日つけたもので、〆さばの押し寿司のようなものだ。それからテーブルの上の卵も自由に食べられることになっているのだけれど、私はやめにした。
 ラーメンを食べた後で、ブックオフで適当に買ったCDをカーラジで流した。Fatboy SlimのCDだったと思う。変な音楽で、結局家のラジカセでもほとんど聴かずに今に至る。

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【今日の音楽】
 
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