シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#103 くつすてた。

 

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 実家に帰った。リンゴを買った。剥いて食べた。

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つがるりんご

 プリモントリオールを捨てた。ナイキの黒い靴。かっこいい靴。靴底に穴が開いて、雨の日には靴下が濡れるようになっていた。洗えない靴らしいから、天日に干していたけれど、くたびれていてもうお払い箱だった。

 買ったのは2016年の夏。大学に入って初めての夏だった。買ったのは実家から一番近いABCマート。その靴を履いて関東に遊びに行き、高校時代の友達と遊んだ。浅草、鎌倉、江ノ島、原宿。原宿の竹下通りが物珍しくて何回も往復した。欲しかったFILAのパーカーを買った。大学生になったからこそ話せることもあり、高校時代に戻って話せることもあった。楽しかった。FILAのパーカーとプリモントリオールと黒いジーンズを履いたらオシャレになった気がした。オシャレな服を着たら気分がよくなるということを知った。外見の自信と内面の自信がこんなにも関係しているなんて。大発見だった。髪の手入れもお化粧も、大事な人にとっては本当に大事なんだなと思った。

 

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水無瀬神宮 お水が美味しいです

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浜大津

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琵琶湖沿いを走る

 そして201711月末。むしゃくしゃした私はプリモントリオールを履いて自転車に乗った。大学の友達の家から出発して171号線沿いをずっと走って行った。福井に住む友人若林のところまで行こうと思った。水無瀬神宮で水を汲んで、大津まではすぐに行けた。それでも琵琶湖の西岸は延々に終わらなかった。湖から吹く風が強くて、おまけに午後には雨が降ってきた。プリモントリオールじゃなくて他の水洗いできる靴や、もうくたくたになった古い靴にすればよかったと思った。でももう引き返すわけにもいかなくて、ペダルをこぎ続けた。白髭神社の鳥居をみながら一休みし、安曇川のスーパーマーケットでまた一休みして、でも雨がどうしてもひどいのでゲストハウスを急いで探してチェックインした。山水ハウスのオーナーは濡れ鼠の私をそのままお風呂に案内してくださった。「山水」と書いた下にローマ字では「shanshui」と書いてあったので不思議に思って訊けば、オーナーさんは中国東北部の出身だった。旅館だった場所を買い受けて、ゲストハウスに改装したそうだ。ゲストハウスのある近江中庄には夕ご飯を食べる場所がないので、マキノ駅前にある料理屋さんまでハイエースで連れて行ってくれた。宿泊客は私のほかにもう一人男の人がいて、仕事でこちらに来ているようだった。自転車で旅行していることを言うと、自分も大学生の時に自転車旅行をした話をしていた。チューブを持っているかと訊かれて、ないと答えたら驚いていた。思い付きで始めた旅行であったからそんなに後先を考えていなかった。パンクしたら困ると思ったけれど、チューブを持っていたところで自分で直せるとも思えなかった。次の日は朝早くに出た。雨あがりの朝は寒くて、でも澄んだ空気とその中を充たしていく光が綺麗だった。その中をまた走って行くのはワクワクした。

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白髭神社の鳥居

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山水ハウス

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朝の空気

 近江から越前に抜ける道は古くから存在しているらしく、奈良時代には愛発関(あらちせき)というのがあったらしい。遠い昔、頼朝に追われた義経も弁慶らと共にこの峠を抜けて東国へと逃げたらしいけれど、当時は荒れた道だっただろうと思う。今でこそ山を削ってできた国道161号線が通ってトラックがたくさん走っているけれど、昔の山越えは大変な苦労であっただろうと思う。「あらち」という言葉も「荒地」とか「荒血」「新血」といった意味に通ずるのだと思う。長い上りが終わると県境にはスキー場があった。今度は下り坂が続いて今までの苦労が報われたような気がした。しかし敦賀に入ったからといって山道が終わるわけではなく、敦賀から福井に向かう国道8号線は海沿いで景色は綺麗だったけれど幾つもトンネルを越えた。自転車でトンネルを走るのは今まで経験したことがないから恐怖だった。第一音が怖かった。すぐ横をトラックが後から後から走り抜けて行って、このまま死んでしまうのかもしれないと思ったりした。武生という場所にはいわさきちひろの生家があって、一休みしようと入ったのはいいけれどかなり長い時間過ごしてしまった。いわさきちひろさんに関する写真や書籍があって楽しかった。祖母がいわさきちひろの絵を好きだったので、小さい時からよく見ていたけれど、彼女の人生がこんなにも波瀾万丈だったとは知らなかった。戦中、戦後の経験やが平和に対する考え方や作品に繋がったという説明がされていた。いずれ安曇野と練馬にある美術館に行きたいと思った。

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国道8号線沿いの海水浴場。敦賀

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いわさきちひろの生家

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サークルの先輩の母校

 鯖江で大学の先輩の母校に寄って写真を撮ったりなんかしているとまた昨日のように土砂降りになった。また靴が濡れてそのまま福井についた。若林はバイトらしいので私は先に宝永湯という銭湯に入った。湯船につかっていたら一人のおじさんに話しかけられて、自転車で関西から来たことなどを話していると、なぜか私の話が広まってしまったらしく、脱衣所で服を着る頃には福井のおじさんたちにたくさん話しかけられた。

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ヨーロッパ軒のソースカツ丼

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若林と作ったカレー

「自転車でよくきたねえ。こんな何もないところにありがとうね」というようなことをみんなが言うたので、福井の人は優しいのだなあと思う反面、そんなに何もないところなのかと気になってしまった。調べてみると福井県の観光地——東尋坊芦原温泉、恐竜博物館、永平寺などなど——は確かに福井市中心部からは遠かった。しかし私は観光に来たわけではないし、また「何もない」わけでもないだろうと思った。探せばたくさん見つかるだろうとそんなことを思っているうちに若林が来て、一緒にラーメンを食べた。それから下宿に行った。もう何を話したか覚えていないけれど、おすすめの漫画を訊いたと思う。彼に教えてもらった『プラネテス』をその後2018年の2月に読んだ。とてもよかった。好きな音楽をお互いに選んで交代でYouTubeで流すというのもやった。彼が選んだピロウズの曲が良かった。私はその頃戸川純にはまっていて、YAPOOSをかけた。YouTubeには「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングのコーナーでタモリ戸川純が喋っている動画があって、もう30年も前のテレビなのに二人のやりとりがとても新鮮でいい感じなのであった。2日目には自転車でヨーロッパ軒に行ったり市内を走ったりした。スーパー銭湯に行くと湯船の中で若林は貧血になっていてひやっとした。二人で八百屋に行って材料を買い、カレーも作った。そして次の朝、私は自転車を輪行袋に入れて電車に乗り、関西に帰った。自転車であれだけ頑張って走った距離は電車に乗ると一瞬だった。

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福井駅

 靴を捨てる時になって私はそんなことを思い出してしまう。その後直接西宮には帰らず、京都に寄り道して高校時代の友人Sの家に泊まらせてもらったのだ。彼と一緒に食べた三条パクチー、彼が弾いたギターと中島みゆきの物まね。東山にある銭湯、銀水湯で出会った人達。Sは別れ際に私にギターをくれた。白いギター。まだ全然うまく弾けないけれど、彼みたいに弾き語りができるようになれたらいいな。

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三条パクチー

 

 今年の3月、青春18きっぷで東京まで行き、友達と会って、そこから宮城県栗原市1週間過ごした時もプリモントリオールを履いていた。その前の2月末に天川村に行った時もこの靴だった。渓流沿いの岩場で遊ぶ時、すり減った靴底が滑ってひやっとしたのだった。友達が投げて渡してくれたチョコレートもバスを待つ間に飲んだコーヒーの味も未だに覚えている。この靴と一緒にいろんな場所に行っていろんな人と会った。そういった思い出はもしかしたらこの靴がなくなったらもう思い出せなくなるかもしれない。私はそれが怖い。だからこうして捨てる前に色々書き残そうと思う。でも書いても書いてもきりがない。でも、捨てるのはもう決めたことだ。日々は続く。前に進まないと。

 ああでも捨てたくないなあ。でもかなり匂うからもう駄目だよなあ。 

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天川村でハイキング

 永遠の嘘をつきたくて僕たちはまだ旅の途中。

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宮城県栗原市 花山ダム

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栗原市はここです。

 

 

 

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#102 タイムトラベラーの憂鬱

 

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 令和元年86

  私はあの夏と同じように病んでいて暑さにやられている。大学に入った頃と同じようにまたカウンセリング室に入って話を聴いてもらう。ただそれだけ。悲しさ? つらさ? 優しさ? やり切れなさ? いろいろ感じるけれどうまく言葉にできない。

 また10分とか15分遅刻して、誰も注意をしない。おばあちゃんは「あなたのことを考えているからあなたを叱るのよ」と言っていたけれど多分本当なのだろう。逆に私がおじいちゃんにきつく当たるおばあちゃんを諫めても、おばあちゃんは聞き流すだけだったけれど。「私とあなたは同じ立場じゃないのよ。だから私が正しいの」

 実はカウンセラーの人の本当の職業を知らない。彼女の名前も初めのカウンセリングで聞いたはずだけど忘れてしまった。たぶんノートには書いてあるはず。でも調べるのは面倒。とにかく3年前とは別のカウンセラーさんだ。前の人とは違って私の人生のことについて訊いてくれる。私は自分語りをするのが好きだから、ペラペラ喋ってしまう。自分が馬鹿に見えるのはわかっている。それでも一度始まるとなかなかやめられない。自分が軽いちっぽけな存在に思える。午後。

 学生相談室の空気は涼しくて、肌が乾燥してしまう。アトピーのせいで肌が薄くなった首元がひりひりするから、ずっと首にタオルを巻いていた。今日は家族の話をした。小さい頃の話。つい最近、母が私を連れて父親の家を後にした件は、いわゆる「夜逃げ」というやつだと気づいた。夜逃げとか貧困とか、育児ノイローゼとか、そういうのって他人事だと思っていたけれど、私が4歳から7歳ごろの間、母親を取巻く状況は似たようなものだった。父親の家族と会って、その後時間をかけて考えて彼らがどういう人間かわかるようになって、今になってようやく気づいたことがたくさんある。悲しいことに、母に大事に育ててもらったのに私は未だに自分を肯定することができない。母にもまだ何も返せていない。

 

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 やっと電話がつながって、渋滞で到着が遅れることを伝えた。想定よりも早くついたけれど10分遅刻だった。10年以上前からお世話になっている矯正歯科。歯列矯正は高校に入る頃には大方終わって、その後はずっと定期健診で通っている。定期健診は私が大学を卒業すれば終わるのだけれど、浪人やら留年やらを経たから、少なくとも26歳までN先生のお世話になる。恥ずかしいと思ってしまう。自分に自信を持てないから、今日は先生の顔も受付の人の顔もまともに見れなかった。自分にがっかりした。

 いつもと同じように矯正前と矯正後の写真を比較した。10歳頃の私の歯並びは本当に悪くて、でもN先生の治療のおかげでみるみるうちに綺麗になった。歯科医のパソコンの中に私の成長過程があった。不思議だった。一時期は毎週のように通っていたから、写真はたくさんあった。とっくの昔に母が捨てたお気に入りの赤いジャンパー。今と変わらない自信のない目。初めて会った時と比べてN先生もだいぶ年齢を重ねた。初老の顔をしていた。

 私生活が荒れていて、最近はちゃんと歯を磨いていなかった。恥ずかしかった。歯石が溜まっていて取ってもらった。昔は怖かったキュイーンという歯を磨く音。バキュームが唾を吸い取る音。N先生が他の先生に指示する声。全部懐かしかった。そうだ、こんな感じなのだった。中学受験で塾に行っていた時も、高校の部活の後にも、私はこうして寝転がってN先生に口の中を見てもらっていた。歯石を削る時、神経にも振動がきて少し痛かった。それもおんなじだった。

 

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 フッ素を塗ったから30分食べたり飲んだりできないのにカフェに来てしまった。ヒロコーヒー西宮北口店。西宮北口からの距離も門戸厄神からの距離も同じくらいなのに西宮北口店を名乗っている。日替わりのホットコーヒーを2杯分頼むと、おしゃれなポットが運ばれてきた。30分経つまで待ってコーヒーを飲むと丁度飲み頃の温度だった。

 カウンター席だった。陳列される実験道具のような器具。その中を一滴一滴落ちていく水出しコーヒー。熱湯で消毒されるカップやソーサー達。店員さんの手元。茶色にまとまった店内の落ち着いた雰囲気。おしゃれだった。

 ロシア語を勉強しようと思って教科書を取り出した。意外とはかどった。学期中はやる気が全くでないのに、夏休みになれば勉強したくなるなんて、なんという天邪鬼だろう。つくづく自分が嫌になる。ただ勉強は基本的に楽しい。ストレスへの耐性が低いだけなのだ。どうにかうまく向き合っていけばいいのだ。何年もうまくいかないし失敗経験ばかり積み重なってしまったけれどいつかうまくいくはず。そう思っている。

 初めてヒロコーヒーに来た時、Hと久しぶりに会った日だった。西宮北口駅の北改札で待ち合わせてアクタを抜けて来たのだ。数年ぶりに会った彼女は昔と同じように綺麗で、冬だったから黒いコートを着ていた。かっこよかった。私は多分休学している途中で、免許合宿に行った後だった。思えばヒロコーヒーの存在も同じサークルだったTに教えてもらったのだった。バンドをやっているバイト先の先輩もこのあたりの小学校出身だった。中高の同級生Mも少し離れた武庫川の方に住んでいるはずだ。彼ら一人一人の顔をひとしきり思い出して、またロシアの自然についての文章を読んだ。バイカル湖は自然が豊かでとても綺麗な場所らしい。

 同じ敷地にあるパン屋で食パンと塩パンを買って家に帰った。母は喜んでいた。

 

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#101 お風呂に入れない

 

 令和2年825

 お風呂に入るのが目的の旅行だったのに、旅行1日目はお風呂に入れなかった。眠くなる前になるべく遠いところまで来ようと頑張りすぎた結果、遅い時間になって開いている銭湯がなくなってしまったのだ。新期造山帯の国を旅行する醍醐味は温泉に入ることなのにこれではもったいない。それに、あせもやらアトピーやらで体が痒くて、汗を早く流したかった。米子の皆生温泉には朝6時から入れるところがあるので、明け方着くように米子に行くことにした。鳥取から西に9号線を走って、疲れたから淀江というところで車を停めて寝ることにした。

 汗がべたついてすぐには寝れなかった。運転席で寝ていると後部座席から誰かが見ている気がして落ち着かないので後部座席で寝た。音がないのも怖いからradikoでラジオ番組を聴いた。鳥取では大阪では聴けないハライチの番組が聴けるらしく、鳥取県民が羨ましいなと思った。後部座席の窓から見える星空はきれいだった。一瞬流れ星が見えた気がして、でも目を凝らすともう見えなくなった。一応ペルセウス座流星群が見える時期だったけれどピークではないので見間違いかもしれないと思った。眼が段々疲れてきて、視界の端にある星が全て動いてるように見えて来た。今日一日で随分長い間運転したのだった。 

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鳥取市内で見つけた靴屋さん。怪しい外観。

 車から出て空を見上げた。星座早見表を買ってもらった時のことを思い出した。これがあれば空に浮かぶ星座がわかると思ってうきうきしたけれど、尼崎の夜空は明るすぎて何一つ見えなかった。ワダっぺとワダっぺの妹のイズと一緒に篠山のオートキャンプ場に行った時に初めて星座早見表を使ったのだけれど、その時には暗すぎて手元の早見表がよく見えなかった。もう17年も経ってしまったけれど今でも時々思い出す幸せな思い出だ。高校の修学旅行にも夜のバス移動の時に窓の外の空がとても綺麗で、友達が楽しそうに星空を見ていた。スマホのアプリと空を照らし合わせていて楽しそうだった。高校時代、私は感情を出すのが苦手で、だからその時もつまんなさそうな顔して座っていたと思う。もったいない。あの頃もっと楽しめばよかった。

 私は今汗にぬれたシャツでラジオを聴きながら空を見上げている。さそり座のアンタレスだけはわかったけれど他の星はちんぷんかんぷんだった。トラックが続けざまに何台か来て、辺りが明るくなってまた暗くなった。私は車に入り、眠ることにした。ずっと虫の声がしていた。

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皆生温泉近くの海岸。ここにも行きたかった。

 

 2時ぐらいに起きて米子まで運転した。すっきりとは眠れなかった。皆生温泉の朝風呂に入るまでの時間、ジョイフルに入って本でも読もうと思った。喉が渇いてファミレスのドリンクバーでがぶがぶジンジャーエールを飲みたかった。車を走らせて駐車して、お店に入る時になって財布がないことに気付いた。最悪だった。

 最後に財布を出したのはいつだったか。眠い頭で考えた。昨日の夜は鳥取asipaiというお店でカレーを食べた。その後中古CDショップでジッタリンジンのアルバムを2枚とATCQのアルバムを買った。欲しかった3枚のCDが買えたことが嬉しくて、ショーケースの上に財布を置いて写真を撮った。おそらくその時に財布を忘れたのだ。最悪だった。皆生温泉に入れないままま、また鳥取まで戻らないといけない。90キロの道のり、だいたい2時間ぐらい。ため息が出た。鞄やらポケットやら考えられるだけの場所を探しても財布は見当たらなかった。ネットを見たらCDショップが開くのは朝10時だった。今は午前3時。あと7時間もお風呂に入れない。はやくお風呂に入りたかった。目の前にジョイフルの空調の効いた空間やカラフルなドリンクバーがあるのに中に入ることもできない。

 もう一度冷静に考えた。また違うことを思い出した。中古ショップの後に私はコンビニで寄ったのだ。コンビニでトイレを借りて、そのまま出るのは悪いからブレンドコーヒーを買ったのだった。すぐにコンビニに電話をかけた。5回目になってようやく繋がった。夜勤の人の眠そうな声。やはり鳥取市内のコンビニに私の財布があるらしい。財布を取りに来るなら店長が出勤する8時以降にしてほしいということだった。ATCQの音楽を爆音で歌っていた時も淀江で「ハライチのターン」を聴いていた時も財布はずっと鳥取市田園町にあったのだ。ノリノリでハンドル握りながら「Yo, Microphone check 1,2, what is this?」なんて叫んでいた時、私と財布の距離はどんどん離れていたのだ。

 誰もいない9号線を飛ばして、寝て、また運転した。ちょうど8時にコンビニに入って財布を受け取った。恥ずかしかったから「ありがとうございます」を数回連呼した後ですぐに出てしまったけれどどうせなら何か買い物をしてお金を落とせばよかった。文字通りの意味ではなく本来の意味で。店長は初老の女性で疲れた顔をしていた。

 

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ともの湯。また行きたい。

 限界だったのでお風呂に入った。昨日から目をつけていた「みさき屋ともの湯」というのが朝からやっていた。朝なのに結構な人がいた。湯の温度が高くて、ずっと水風呂に入っていた。水風呂の水もしっかり温泉の水だった。しょっぱかった。睡眠不足がひどくてずっと水風呂に入っていると気絶しそうになった。寝れなくとも疲れをしっかり取ろうと思って1時間ぐらい水風呂とサウナ、湯船を往復した。

 しっかり時間をかけて歯磨きもした。旅に出ると非日常が日常になる。だから歯磨きのような日常に時間をかけられることが贅沢になる。そんな気がする。眠くてぼおっとしていたので同じところを何回も磨いてしまった。

 ともの湯はスーパー銭湯ではないのだけれど漫画を読むスペースがあったり、そばとうどんが売っていたりした。起きてから何も食べていない私はそばを食べた。150円という驚きの安さだった。熱中症になったらだめなので出汁もけっこう飲んだ。結局2時間近くもともの湯にいた。車に戻ると直射日光にさらされて車内はもうアツアツだった。

 皆生温泉にはもう寄らず、松江まで行こうとしていた。眠くならないように音楽を大音量で流した。山陰ジオパークに含まれる海岸沿いを走るのは気持ちよかった。わき見運転をしないように気をつけた。いつも見る瀬戸内海とは違ってここにあるのは外海である。だから波が強くて海の色が濃かった。誰も知らないような砂浜にテントが一つだけあったりして少しワクワクした。

 途中、白兎神社と、鳴り石の浜で休憩をした。

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そば。

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今回の旅行で聴いた音楽

 

Yo, Microphone check 1,2, what is this?」が気になる方はこの歌をどうぞ

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今回のブログは前回の続きです

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 旅行っていいよねっていう詩

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 去年旅行した時のことを書いたものです

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#100 旅に出ています

 

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 令和2824

 旅に出ています。おじいちゃんの家で車を借りて、ものの10分も走れば緑の広がる土地です。不思議です。日常の中では意識しなくては自然を見つけられないのに、旅に出ればこんなにもたくさんの植物を目にすることができます。山や川、森や林。自分の住んでいるところがいかに異常なのか、いかに人工的な環境にいるのかわかります。すこし悲しいです。

 県内をどんどん北に上がると懐かしい地名に出会います。昔ワダっぺの家族とともに泊まったキャンプ場が篠山にはありました。原付バイクや自転車なら簡単に止まることができるのですが車なので一瞬で通り過ぎてしまいました。一つ一つの景色をゆっくり見たいと思っても、気になるカフェやお寺があっても車では止まることができません。私はそこになにか大きな違いがあるように思いました。自転車と自動車の違いはそのまま子供と大人の違いなのかもしれません。一度大人の世界に入ると走り続けないといけません。お金とか人間関係とか立場とかそういったのに縛られて身動きがとれなくなって、いつか立ち止まれなくなるような気がします。まあそう感じるのは私だけなのかも知れませんけれど。環境問題もそうです。化石燃料を使い続けることが環境に悪いのは誰の目にも明らかなのに利権が絡むと誰も動けません。動いている人は確かにいるのでしょうが、スポットライトは当たりません。ペットボトルを作っている人は家族を養うためにこれからもペットボトルを作らないといけませんし、フェアトレードのラベルがついていないチョコレートの方が安いから私もいつもそちらを選んでしまいます。そもそも私たちの選んだ商品、私たちの選んだ仕事がどれほど環境に負荷をかけているか、あるいはどれほど人権を侵害しているのか、そういったことは私たちの目から隠されてあったりします。

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竹田城。山登りが大変だった

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みんなで食べた出石そば。


 まあそれはともかく、去年レンタカーで友達と行った竹田城や出石、学童の時スキー旅行で来た氷ノ山、中学の時に最初の遠足で行った神鍋も車だから素通りしてしまいました。残念でした。そこを訪ねればよみがえったかもしれない記憶がいくつかあったでしょう。もしかしたらこの機会を逃せば生き返らないような思い出もあったかもしれません。自動車での旅行は小回りが利かなくてイライラします。

 中国山地にさしかかると道のアップダウンが激しくなります。いつも平地に住んでいる私は新期造山帯にあるこの国の大地は険しいのだと再確認いたします。西宮も神戸も急な坂道はありますがそれは自然の一部というよりも都会の一部であって、文明によってだいぶ手を加えられた後のものです。自分の住む街には舗装された地面と商店街があります。国道と鉄道があって小学校がにぎやかです。そういった土地に住んでいる自分は恵まれているのかとも思ってしました。車なしでは住めないような土地に住んでいたのなら今の自分はでき上がっていなかっただろうと思います。今の甘ったれた自分は好きではありませんが、自転車で高校まで毎日雨の日も風の日も走ったり、最終バスの時間を気にして週末に友達と遊んだりするなんていうことは想像できません。18歳になる頃には、すでに私は三宮や梅田に幾度となく出かけて遊んだことがありましたが、この土地に住む18歳はそんなことはないだろうと思いました。どの土地も平等に、等しく価値があるなどと偽善的なことは口が裂けても言えませんが、その土地にはその土地の良さがあります。ご当地のお米や名物があり、風土があります。ことに日本のように山地が多い国ではなおさらだと思います。こんなにもたくさんの地名や名字や方言があることは日本語や日本文化の豊かさに繋がっていると思います。

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 大学に入って気持ちが悪かったのは、田舎出身というだけで馬鹿にする人がいたことでした。出身地による差別はそのままの差別ではなくても「いじり」というものに残っていると思います。社会の仕組みの中にも差別は残っていると思います。「都会」と「田舎」の間には文教施設へのアクセシビリティや学生の進路の選択肢などは大きな差があると思います。英語検定試験の問題はまさにそれでした。友達が言ったように結局は人生は運ゲーなのかもしれません。どんな親の下に生まれるのか、どんな遺伝子を持っているのか、どんな土地に住むのか。私たちはUNOやトランプの大富豪のように手持ちのカードを上手に使うしかないのかもしれません。格差や不正というのは誰もが解っているものだと思いますが、この国では誰も真剣に考えていないように思います。学生団体で正義について熱く語っていた人も結局は就活してあちら側にいってしまいます。まあもとより真剣に話していたのかは疑問ですけれども。就活産業自体が巨大なブラックホールになっていて、私は漠然とした諦めを感じます。気候変動の問題なんて最たる例です。前の世代が作り上げて来たことに対する怒りを最近は時々感じます。

 ユニセフの統計によれば日本の子どもの精神的幸福度は低いそうです。部活動における不条理、いじめ、無関心、自殺。そりゃそうだと思います。アメリカから飛行機を買う分、教育の予算を削っていることもそうですし、大学に入るための意味のない競争をけしかけられていることもそうですし、出していけばきりがありません。私は16歳の時に自分の人生に絶望してしまってから、何かがごっそり抜け落ちてしまったような気分で生きています。世の中を斜めに見て、のうのうと毛布にくるまりながらテレビを見てツッコミを入れています。夏が来るたび、学期が終わるたびに落ち込んで、自分を変えたくて旅に出ます。そうしてまた旅先でうっとりした後、日常に戻って絶望的な気分になります。私はそういうのを永遠に繰り返すようです。

 今回の旅行では少しでも日常を忘れて、リフレッシュしようと思います。温泉に入れるだけ入ってストレスで悪化したアトピーを治して、ゆっくりしようと思います。旅行の後にまた暗黒期がやっくるでしょうけれど、とりあえず今のところは旅行を楽しもうと思います。

 それではまたいつかお会いしましょう。お元気で。

 

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これは昨年訪れた岡山の湯原温泉

 

 

ユニセフの記事

ユニセフ報告書「レポートカード16」 先進国の子どもの幸福度をランキング

 

 

〈ひとこと〉

 最初、自動車を乗りこなす林芙美子旅行記を書いたらどんな風になるか想像して書いてみました。書いているのは楽しかったのですが、楽しいあまり筆が進んで(この文章は日記帳に書いたことを写したものなのでここでは文字通りの意味です)、自分自身のが普段考えていることをたくさん書いてしまいました。だからパロディとしても文章としても完成度はあんまりです。ただ、ここに書いてあることは全て私の考えていることです。だいたい旅の途中ではこういったことを考えています。日本を旅していると本当に子供の姿を見かけることが少なくて不安になります。考えすぎかもしれませんけれど。林芙美子ならもっと土地における人の姿や、山や雲といった形をもっと美しく文章の中で表現している気がします。

 シゲブログも100回目になります。読んでくださっている方ありがとうございます。この記事でブログを知ったよという方も、ここまで読んでくださってありがとうございます。また定期的に読んでくださるとうれしいです。周りにシゲブログが気に入りそうな人がいれば教えてあげてください。

 コロナ禍で異常なことが続く毎日なのですが、皆様はくれぐれもご自愛ください。いつ会えるかどうかわかりませんがまた会うことが出来ましたら、楽しくおしゃべりしましょう。

 最後にハンバートハンバートの大好きな歌を貼っておきます。コメントで教えてもらった歌です。書いていてなんですが、暗い記事が多いのでコメントしづらいかもしれないですね。おすすめの音楽とか本はいつでもウェルカムなのでコメントしてくれると嬉しいです。 

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書き手がどんな人間なのかというのはこれを読めばわかるかなあと思います。わからなかったらごめんなさい 

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 どうして私が書くのか、ということについてはこの2つの記事を読めばなんとなくわかると思います。

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#99 remember me

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 忘れられることは死ぬことだ。

 ずっとそう思っている。逆もまたしかりで、誰かを忘れることは誰かを殺すこと、とまでは思わないけれど、それに近いことだと考えている。昔から忘れたくなかったし、忘れられたくなかった。一年間過ごした病院を退院した時から友達とは年賀状をやり取りし続けたし、転校してからも毎年一回は友達に会いに自転車で隣町まで走った。西宮から尼崎まで、JRに沿って自転車を走らせる。甲子園口駅にも、武庫川にも、立花駅にもいろんな思い出があってウキウキしながらワダっぺの家の前に自転車を止めてインターホンを押した。カホちゃんの家に行くこともあったけど、カホちゃんは塾があったり忙しいから遊んでくれなかった。ワダっぺと一緒に校区を回って友達の家に行ってみたり、小学校の校庭で友達の野球を見たり、タコ公園を一緒に散歩したりした。小学生だからできたことだ。いきなり家におしかけても許されたし、別に用事もないワダっぺは気がいいから一緒に遊んでくれた。気まずいという感情をまだ知らなかった時代、楽しいことしかなかった。いつか離れ離れになってしまうとしても、できればずっと一緒に遊んでいたかった。

 

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 父親の家を出る時、ずっと彼の顔を覚えていようと思った。何も知らない父親はいつものように小さい私の方にかがみこみ笑顔で私を見ていた。父は何か言ったけれど声色も内容も全く覚えていない。もうすぐその家から出ていくことを母から告げられていた私は父と会うのはもう最後なのだと思ったからその顔を忘れないようにずっとずっと覚えていなくてはならないと思った。

 次の記憶はいきなり保育所に移る。毎日泣いていた。それまでずっと家の中で育ったので、他の子どもたちと同じ場所にいること自体が初めてだった。母親と離れないといけないというのも初めてで、だから毎日毎日保育所に行くのが嫌だったし、特に嫌なのは私を母が保育所の門を出ていくのを見ることだった。母は新しい町で仕事を見つけて働いていた。母親が職探しに成功しなかったらどうなっていただろうと想像するとぞっとする。毎朝私は号泣するから母は遅刻することも多かったらしい。

 最悪だった保育所も次第に慣れていった。最初に話しかけてくれたのはスズキナツミちゃんでかけっこが速かった。ワダっぺともそこで会った。ワダっぺは当時からすでに天才的で遊戯室にある画用紙を使って漫画を描いていた。ワダっぺのやっていることを真似してみんなが絵本をつくるようになり、年長になるころにはクラスのみんなが作った絵本を読み聞かせして発表する会が定期的に催された。小学校低学年には彼は夏休みの宿題で描いた絵で表彰されていたし、4年生になる頃には「無言キャンペーン」というのを展開して全く話さない時期があったらしい——映画『リトルミスサンシャイン』のポール・ダノみたいだ——。ワダっぺ、彼は今なにしてるのだろう。引きこもりになってなかったらいいなあ。

 

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 とここまで書いたところでチャイムが鳴って従弟が車のカギを取りに来た。私も3歳下の従弟も自動車免許をとって、おばあちゃんのものだった日産ティーダを乗り回している。冴えない色と形のコンパクトカーだけど、見てくれはともかく、機能性は高いと思う。この前もこの車に乗って出雲まで行った。父親の家にいた時に母が運転していたのはホンダシビック。父親も奈良に住む父親の家族も誰も免許を持っていないから、母が運転していた。マザコンだった父親は始終、勤め先のある京都と実家のある奈良を往復したのだけれど運転するのは母だった。料理するのも母。眼が見えないおばあちゃんの手助けをするのも母。もちろん私と遊んだりするのも母。父親に抱きしめられた記憶は全くない。ウルトラマンの本をもらったぐらいだ。そしてもっと最悪なのは父親の姉と母だった。彼女たちの存在は父親をも苦しめていたと思う。

「嫁に来たということは家に嫁いだのと一緒」

そんなことを平然と、後ろめたさなどみじんも感じることなく言える人たちだった。私はあの頃無力だったのが悔しい。

 

 半年ぐらい経つと保育所は楽しくなっていた。毎日元気よく母の自転車の後ろに乗り込んで登園した。どこで気づいたのかは忘れてしまったが、ある日、父親の顔をどうやっても思い出せないことに気づいた。脳みそを必死で絞り出しても何も出てこなかった。ショックだった。自分にとってかけがえのない存在であるはずの父親の顔をもう思い出せないとは。街行く男の人の顔を見ながら父親の顔を思い出そうとしたけれどはっきりしなかった。ミニアチュールに描かれるムハンマドのように顔の輪郭や体つきはわかるのに、目鼻立ちがわからなかった。毎日毎日思い出そうとして、頭の中で一人で福笑いをやっていた。鏡に映る自分の顔を見て、父親に似ているな、と思う時もあったがどこがどう似ているのか説明できなかった。なんとなく鼻が似ている気がした。

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 ある日私は全てのことを忘れないようにしようと決意した。父親の顔が思い出せないなんてことはもう二度と経験したくなかった。小学校に入ると日記を書きだした。「今日は学童で円盤かくれんぼをしました。初めはながはしりなが鬼でした。すずが枯れ葉の中に隠れていたのが面白かった」「今日の算数の授業では百マス計算をしました。カホに負けたのは悔しかった。また頑張ろうと思います」こんな感じ。日記を書くのが面倒だと感じる時期もあって、そういう時は「今日は学校に行き、学童に行きました」「今日は学校に行き、学童に行った後テニスに行きました」みたいな日が延々と続いた。毎日日記を読むのを楽しみにしていたらしい母が「もっとちゃんと書けば?」と言うまでそんなのが続いた。大学に入る時、受験勉強から解放されて本格的に日記を書き始めた。書くことがたくさんあって、大学の授業そっちのけで書きまくっていた。気がつくと100ページもあるノートを10冊以上も書いていて、自分が怖くなった。思いついたことを忘れないようにと思うからSNSの更新頻度も高くなってきて、良くない傾向だと思った。Twitter140字じゃダメだと思ってブログを始めた。でもブログでも良くないことばかり書いてしまって、書けば書くほど友達は減っている気がする。でも書くという行為は私にとって、その時の自分や周囲の人間の存在を生き永らえさせるため行動なのだ。書き残すからこそ、私は保育所で同じクラスだった内藤まいかちゃんを覚えているし、人生で最初の音楽会でめちゃくちゃかっこよく大太鼓を叩いていた大川ことみちゃんや、8歳の時にくだらないギャグを一緒に考えた笹野ゆうやを覚えている。彼らが私のことを覚えているかどうかということはこの際関係ない。別の話だ。

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 小学校を転校する時も、卒業する時も、もう二度と会わない誰かとの別れを惜しんだ。7歳の時に友達のあずさちゃんが転校したのだけれど、そこにいた人が次の日にいなくなるという事実が悲しすぎて、お別れ会の間、あずさちゃんがかけがえのない人に思えた。別に遊ぶグループも住んでいる場所も違ったけれど、もう会えなくなるのは辛かった。住所を交換するとか、電話番号を教え合うとかそういうことを思いつくようになる前のことだった。私は友達に好きだったと伝えた。それが考えられる最も良い方法だった。次の日から彼女は学校に来なくなった。私は半年前に卒園式で歌った歌を思い出した。

 

みんなともだち ずっとずっとともだち

がっこういっても ずっとともだち

みんなともだち ずっとずっとともだち

おとなになっても ずっとともだち

 

みんないっしょに うたをうたった

みんないっしょに えをかいた

みんないっしょに おさんぽをした

みんないっしょに おおきくなった

 

 私は今でも思い出を残そうと誰かと遊んだ時のレシートを残す。誰かと街を歩いた時には古本屋に寄って本を買ったりする。その本には、内容とはまた別に思い出が付与されて、私にとってはかけがえのないものになる。その本が手元にある限り、その人のこともすぐに思い出せるからだ。そんな生き方をしているから私は物を捨てられない。最悪なのは教科書で、私は卒業からだいぶ経った今も高校の教科書を捨てられていない。

 

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 忘れない限り記憶の中ではみんなと一緒にいられる。忘れない限り彼らは私の中で生き続ける。物を捨てた時、定期的に連絡をとりあうことをやめた時、相互フォローでなくなった時、会話で話題に上がらなくなった時、彼らはゆっくり死んでいく。全部を全部抱えきれやしないし、みんなそうやって生きているし、人生そういうもんだろ? ってもう一人の私は言うけれど、もう一人の私はわからずやで絶対に納得しない。周りのみんなはもう大人になっているのに、片手で抱えあげられるほど小さいそいつは頑なにその場から離れようとしない。そうしてまた一年が経ってゆく。

 

 youtu.be

 

https://youtu.be/jbYh4su2HGE

 

 

 

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高校の同窓会に行った話です

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どうして書くのか、ということを書いた記事です

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尼崎にまつわる思い出について書いた記事はこちらshige-taro.hatenablog.com

 

#98 情けない話

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 いつから死にたいと思うようになったのだろう。4歳? 5歳? 始まりはかなり早かった。父と母が言い争っているのを聴きながら、自分がいなければこんな言い合いも起こらないのだろうと思っていた。自分が悪いと責めていた。悲しかった。非力な自分が許せなくて、早く大人になりたかった。家族のことだから詳しいことを書くのは本当はあんまりよくないけれど、このブログ自体壮大な自傷行為なのだから今さらもう遅い。もうすぐ閉鎖するブログなのだし、8月ももう終わるしどうにでもなれという感じである。父と母は言い争っているだけに見えたけれど、今から考えてみるとあれは家ぐるみのいじめだった。DVでもあった。あからさまな暴力はなかったけれど、3歳児の目線から見ても違和感があった。母親にはつらくあたるのに私には優しい人たち。すごく怖かった。母を助けたかったけれどどうすればいいのかわからなかった。今でも他人を簡単に信じられないのはそういう記憶があるから。

 4歳になろうとする6月、母は私を連れて夜逃げした。ほどなく尼崎の街に住むようになった。いっぺんに世界が変わった。父親がまだ触れる距離の所にいた時代、記憶はかなり曖昧で、でもその中にはいくつもの地雷が埋まっているように思える。思い出したいけれど思い出したら確実に落ち込んでしまう。そういうのがたくさんある。父親がいた日々はそれ自体が大きなブラックボックスで、私がこんな風になってしまった原因はその中にあるような気がしてならない。確かめられないからこそ惹かれてしまう。3歳の自分がどのように日々を生きていたのか。母と二人で住むようになったことをどのように受け入れたのか。

 夏が来るたびに私は落ち込んで、そしてその度に私は自分の人生を振り返る。過去に答えを探そうとする。過去は変えられないのに。どうしてこうなってしまったのか、片親でなかったらこんな風にならなかったのか、もっと自己肯定感が高く育つためにはどうすればよかったのか。

 

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 自己肯定感。そんな言葉を知らずに30歳までいけたらよかった。自己肯定感に問題がない人間ならそんな言葉を知らずに過ごせただろうし、苦しまずにも過ごせただろう。いやそんなことはないか。どのみちを進んでも結局苦しかっただろうか。というかみんな苦しいのか。私は、私だけが苦しんでいるように思っているが、これは思い込みで、神様は全ての人に等しく同じ試練を与えているのだろうか。でも私は納得できない。彼彼女の苦しみと私の苦しみが同じなんて。

 自己肯定感。意識すらしたくないのに意識してしまう。私の人生がうまくいかないのも全て自己肯定感のせいにしてしまう。言い訳ばかりしている。いつか強くなって言い訳なんて必要ないほどのポジティブなメンタリティーを持ちたいけれど、そんな日はくるのだろうか。死ぬまで付き合わないといけないのだろうか。安住できる場所はあるだろうか。

 もちろん、自己肯定感の問題の原因を全て家庭に求めるのは危険がある。母子家庭、父子家庭で育ったからといって、全ての子どもがメンタルに問題を抱えるとは思わない。そのように論じてしまうのは差別につながる可能性もある。「あの子は片親だからかわいそう」というような言葉が社会に溢れてしまうのは私の望むところではない。分かってほしいのは、これは父親がいればあったかもしれない人生を私が感傷的に妄想している文章であることだ。現在の自分が抱える問題全てを父親の不在のせいにしようとする私の態度は褒められたものではないし、そんな風に考え続けていてはいつまで経っても前向きにはなれない。とはいえ、何年も解決策が見つけられないのも事実なのだ。大学生になって父親に会いに行ったけれどうまくいかなかった。病気を理由に会わせてもらえず、来ないでほしいと婉曲的に言われた。たぶん父親が死んでも連絡は来ないだろう。いつか自分の戸籍を見て父親の死を知るであろう私はずっと捨てられた子どものままだ。会おうと思えば会えたのに本当に一度も会ってくれなかった。ちょっと信じられない。

 

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 友達の家にいた。ずっと話すのにも疲れてテレビを見ていた。深夜の音楽番組だった。新しく出た音楽が紹介されていて名前の知らないようなバンドやアイドルが楽器を弾いて歌っていた。おしゃれなミュージックビデオが午前3時とか4時のテレビに映し出されていて、食べかけのポテチの袋が目の前にあって、テレビをみながらコーラを飲んでた。ぬるいコーラを飲みながら、カラフルな画面を見て友達が言った言葉が私は忘れられない。

「こういうMVとかおしゃれなのって自己肯定感高くないと作れへんよな。結局」

そんなことないと言いたかった。そんな悲しいことを言わないでよ。その気になればなんだってできるんだよ俺たち。でも言えなかった。友人は詳しいことは言わなかったけれど、言わんとすることはなんとなくわかった。クリエイターはありあまるほどの正方向のパワーを持っていないといけない。ポジティブなパワーを持っている彼らは自己肯定感や自信に問題を抱えていないだろう。自身に疑いを持つことも少ないだろう。なぜなら生い立ちが違うから。安定した環境で愛されて育ったから。自分を責めずに育ったであろうから。

 私たちはもう考えすぎてしまう。感じすぎてしまう。誰かに遠慮してしまうし、悪口や批判があれば傷ついてしまう。自分に自信を持てないからアイデンティティはいつまでも固まらない。強い人に会うと自分を卑下してしまう。必要以上に影響は受けてしまう。だから一貫性もない。友達と私、状況は色々違うからここに書いたことが友達に当てはまるとは思わないけれど、少なくとも私はそうだ。

 世の中を見わたすと強い人が目立つ。クリエイター、大学教授、コメンテーター、批評家、芸能人、モデル。入学した国立大学や中学受験した学校で出会った人だってそうだ。みんな強い。みんな私が一生かけても獲得できないものを持っている。私がなりたい職業も夢も、実現するには自信が必要で、それを手にするにはかなりの時間がかかりそうだ。一生かけても自分を認められるようになれないかもしれない。とても不安だ。そしてとても悲しい。まだ20代なのだし下を向いてばかりじゃいけないのはわかっているけれど、上を向いているのが段々とつらくなってきてしまった。憎しみとか嫉妬に支配されそうで最近の私はとても怖い。自分が簡単にモンスターになってしまうような気がする。誰にも彼にも当たり散らして、誰も愛さず誰からも愛されないモンスター。そんな生き物になってしまったら、みんなとは簡単に会えなくなるだろう。自分の情けない姿を友達に見せることが恥ずかしくてたまらないだろう。でもこのまま死ぬのはいやだし、できるならば、大事な人とのつながりを保ったまま生きていきたい。でも今はちょっとしんどい。

 

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〈あとがき〉

最近ヒップホップにはまっているので韻を踏んだあとがきにします。OutKastATCQが今のところのお気に入りです。

 

Yo, of course, this is a fiction.

Including big memory distortion

Problem with self-affirmation

Causes my suicidal ideation

It's clear, it's my mission

So, I'm writing my depression

With magical blue FRIXION

Made by PILOT corporation

 

うーん。あんまりですね。

 

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 父親に会いに行った時はこちらから。

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 尼崎に住んでいた時のことはこちらからどうぞ。

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2017年に色々しんどかった話です。

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#97 映画『アメリ』 現実に向き合えない私たちへ

子どもの頃、友達が欲しくて架空の友達を想像していましたか?

自分の葬式を想像して、自分の人生を虚しく思ったりしますか?

誰かと仲良くなりたいのにうまくいかなくて、自分は他人と一緒にいられないのだと諦めていませんか?

うまくいかないことを自分の生い立ちのせいにしていませんか?

 

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 映画を観るようになった頃、自分の中でランキングをつけていた。母親に誕生日に買ってもらった双葉十三郎の『外国映画ぼくのベストテン50年』みたいに、自分も批評家になったような気分でノートをつけたりしていた。定期テストの最終日、早めに家に帰った私は録画していた『アメリ』を観た。その日からジャン・ピエール・ジュネのその映画が私のベスト映画になった。

 それからかなり長い間、オドレイ・トトゥ出世作がベストワンの映画であり続けた。他にベストテン入りを続けていた映画には、『レナードの朝』『リトルミスサンシャイン』『ロイヤルテネンバウムズ』『スタンドバイミー』などがあった。邦画はあんまり観なかった。『舞妓Haaaan!!!』だけがベストテンに入っていた。

 ほどなくして私は映画に順位をつけることをやめた。点数をつけるのも訳知り顔で甲乙をつけるのも、段々嫌になったのだ。大学に入って友達に勧められてFilmarksを始めたけれど、長続きしなかった。友達の観た映画をチェックできたり、自分の観たい映画のレビューを見れるのはいいとは思ったけれど、続かなかった。映画に100点満点で点数をつけるのが苦手だった。おこがましく感じた。どの映画にもいいところと悪いところがあって、そういうディテール一つ一つを無視して点数化するのが苦痛だった。

 

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アメリ』を初めて観た時のことをはっきりと覚えている。その日、私は『アメリ』を観て、それから電車に乗って英語塾に行った。ずーっと夢見心地だった。授業中も映画のことを考えていた。フランス語を聴いた後だと、先生やクラスメイトが話す英語が変な感じに聞こえた。フランス語もいいなと思ってフランス映画を選んで観たりした。英語の次に訪れた、私にとって2つ目のインド・ヨーロッパ語族の言語だった。中国語の映画や韓国語の映画は観たことがあったけれど、電車やテレビで日常的に聴く言語なので何も思わなかった。でもフランス語はなかなか聴く機会がない。だからとっても変な感じだった。英語みたいなのに英語じゃない。これがフランス語なんだなあと私は思った。(陳腐だけど本当だから仕方ない)

 塾の授業が終わって前にフランス映画を観たことを友達に話した。『アメリ』がどんなに素晴らしい映画だったか伝えようと思ったのに、うまく言葉にできなくて困った。友達は不思議な顔で私を見ていた。

 

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 また今年も『アメリ』を観た。今年は色がいいなと思った。赤と黄色。緑。アメリは緑色の服を着ていることが多い。隣人の家の屋上に上ってテレビの線を抜くときも、緑の色を着ている。緑色には「確実でないもの」や「よくわからないもの」というイメージがあるらしい。ウィキッドにもナルニア国物語の「銀のいす」にも緑色の魔女が出てくる。カジノでトランプのカードやダイスが置かれるのは決まって緑色の布を張ったテーブルの上だ。アメリが緑色の服をよく着ているのは彼女が「不思議ちゃん」のようなイメージを与えるのに役立っていると思う。

 日韓ワールドカップの前に作られた映画なのにまだ全然新しい。間違いなく傑作だと思う。いくつか黎明期のCGが稚拙に感じられる場面もあるけれど、いつまでも色あせない。

 

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 長い間私は『アメリ』の世界に憧れていた。アメリのようにパリで暮らしたかった。運河で水きりをして、カフェで注文したクリームブリュレの表面をスプーンでたたいて割りたかった。地理の時間には地図帳をみてパリに住むアメリやニノ、リュシアンのことを考えていた。ドミニク・ブルトドーのように火曜の朝に市場で買ったチキンを丸焼きにして腰骨の肉を食べたかった。パリ市街の地図をみながらモンマルトルの公園を探したり、映画に出てくる運河がどこにあるのか考えたりしていた。

 夏休みも終わりに迫ったある日、ブックオフで立ち読みしていたら松本人志が映画『アメリ』をこき下ろしていた。筆が走ったついでに彼はロケ地を巡る人たちにも「苦言を呈して」いて、そんなこと書かなくてもいいのになと思った。彼みたいに「ぶっちゃけ」れる人がもてはやされるのは良くないと思う。松本人志テレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』も同様にこき下ろしていて、「この映画見た後で、同じマンションの外人とリターンマッチしようかと思いましたよ」みたいなことも書いていた。色々と間違いの多い、配慮のない表現だなと今でも思うし、そんな人が日曜日の朝に時事問題を扱っているのはとても怖いことだ。私は松本人志が嫌いだ。彼は都知事選の投票に行かなかったことをテレビで堂々と語っていたらしい。

 その夏の午後、私は自分が否定されたかのように感じて、沈んだ気持ちでブックオフを出て自転車にまたがった。自分の嗜好は私の人格とは関係のないはずなのに、私はいつもむきになってしまう。

 

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「他人とうまく関係を築くことができない」

 映画のヒロインが言うセリフならいい。でも私は別に主人公ではないし、見た目も美しくない。最近ヒゲもしっかり生えるようになってきたし、生え際も確実に後退してきた。そんな私が窓際に立って同じセリフを言っても絵にはならないし、「24歳にもなって、なに夢見てんだよ」とみんな思うだろう。それでもアメリが窓の外を見下ろしてこのセリフを言う時、私は自分がアメリになったような気分になる。未だにこのシーンで泣いてしまう。このシーンのアメリは私なのだ。こういったシーンがある映画が私は好きだ。『ムーンライト』も『桐島、部活やめるってよ』も『めぐりあう時間たち』も。

 そういった映画はやっぱり安心するせいか、何度も観てしまう。

 

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映画『ムーンライト』



 アメリのようになりたかった。

紅の豚』でポルコ・ロッソのセリフに「いいやつは死んだやつらさ」というのがある。幼い私は金曜ロードショーで観たのだけれどなんのことかさっぱりわからなかった。おばあちゃんが死んでその言葉の意味がようやくわかった。おばあちゃんと過ごした日々について祖父は大幅に記憶を修正し、祖母の写真の前でまるで彼女が神であるかのように手を合わせた。おばあちゃんが夫婦関係を肯定的に私に語ったことはほとんどなかったので、私はそんな風に振舞える祖父が怖かった。身勝手な人だと思った。祖父以外がどんな風に過ごして来たのか、今どんな風に感じているのか、そんなことはスーパーポジティブな彼にとっては取るに足らないことだった。死んだ人なら後でいくらでも記憶を修正できる。記憶の中の彼らは優しくて素晴らしくて、そんな彼らと私たちはいつでもうまくやっていた。そんな風に信じ込むことができる。死んで思い出の中にしまわれるようになった人たちはあなたにいつも微笑みかける。過去にやった悪事をわざわざ追及されたりしない。もちろん謝罪を求められることもない。犯罪者にとっては死んでしまえばこっちのもんだ。

 

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 予備校の現代文の教師が「一方的な想像だけの恋愛。これが一番いいんです」と言って、私はなるほどと思った。

 街で見かけたあの人と私が恋人同士になることを想像するのは甘美だし、誰にも邪魔されない。空想上の人々はいつだって私に優しい。恋人の存在や結婚がすべてを解決すると勘違いしている残念な人はたくさんいる。彼らは「恋人がいる」、あるいは「既婚である」というステータスに幸せの基準を置いていて、本当の幸せがそこにあるのに盲目だったりする。とってもとっても残念である。妻が美人女優であることや、持ってる車や着ている服でしか幸せが測れないなんて間違っている。幸せはもっと日常の言葉にならない一瞬一瞬にあるのだ。(わからない人はカズオイシグロを読んでくれ!!

 

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 空想の世界に浸るのも、妄想的な片思いと同じである。自分で作り上げた世界では私を傷付ける人は誰もいない。空想の中で私は映画監督にも、遺跡を発掘する考古学者にも、授賞式でスピーチをするノーベル賞作家にもなれる。私を理解してくれる人たちが周りにいて、心の深いところで彼らと分かり合えるのだ。これはもう麻薬みたいなものである。(麻薬やったことないけど)

 空想中毒なのはアメリも同じである。現実から逃避しているアメリに言うガラス男レイモンのセリフにいつもドキッとしてしまう。

「子供の頃 友達と遊んだことがなかったのかな おそらく一度も」

「つまり今そこにいない人間との関係を想像する方がよくて今いる人間との関係はどうでもいいと?」

 

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 アメリの少女時代は孤独だった。心臓が悪いと勘違いした父親はアメリが学校に通うことを禁じた。母親は厳格で、アメリは空想の世界に逃避した。ぬいぐるみのクマ、植物状態の隣人、飼っている金魚、自分の空想次第で彼らは話し相手になった。アメリと同じように子どもの頃友達が欲しかった。話し相手が欲しかった。学校での友達の幼稚さにうんざりしていた私は、本の中の世界に逃げた。夜眠れなくて、ベッドの中で空想していた。空想の中で私は架空の友人と共に冒険にでかけたりするのだった。

 空想の世界に逃げ込んだ私たちは空想の世界では何でもできたけれど、現実世界の私たちはとても臆病だった。それでもアメリは部屋で見つけた一つの箱をきっかけに一歩ずつ踏み出していく。今まで向き合ってこなかった現実世界の中で生きようとするのだ。毎年『アメリ』を観る度、この点にとても救われる。

 

 

 

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