シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#72 直方市石炭記念館

令和元年 831日午後

 この感じ、宮沢賢治の童話に似てるな。そう思った瞬間が人生に一度あった。中学に入った5月、オリエンテーション旅行という名の、学年の親睦を深めるような旅行があった。あんまり覚えてないけれど兵庫県の神鍋高原に行って1泊か2泊するというものだったと思う。オフシーズンのスキー場は一面緑色で、使われていないリフトの柱が草原にぽつんと立っていた。新緑の斜面には春の山菜がいたるところに育っていて、それを見るのが楽しかった。蕨を取って帰りたいなと思ったがどう調理すればいいのか知らなかったのでやめた。

 細かい経緯は忘れたが、担任の先生に連れられて宿舎近くの山を歩く時間があった。クラス毎に固まって山道を歩くのだけど、中学1年生だからにぎやかで、なかなか騒がしい道中だったと思う。ハイキングコースの中に一ヶ所、小さな洞穴のようなところがあった。先導する先生がおもむろにそこに入り、壁から石を剥がしてみんなに見せた。先頭集団にいた私たちが寄って見るとそれは石炭だった。水にぬれてキラキラ光っていた。一瞬だけ先生が宮沢賢治に見えた。宮沢賢治が農学校で教鞭をとっていた話や、、生徒を連れて歩き回っていたエピソードが頭の中でつながって、不思議な感動が心の中に広がった。先生が私の手のひらにちょこんと乗せた黒い石はもろくて、指で押すと形が変わった。数人入れるだけのその場所に私も入り、石炭の地層を見た。数センチほどの薄い層だったがその地層だけ色が黒いのでよく見えた。石炭の下から水がちょろちょろとしみ出していてちょっとした小川を作り出していた。中学受験の勉強で隆起や沈降といった地学の難しい言葉を教科書の上では知っていたけれど、実際に意識して地層を見たのはこれが初めてだった。石炭記念館の展示を見るうちにそんなことを思い出していた。

 

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 北九州で時間を使いすぎたせいで、直方に着くころには陽はずいぶん傾いていた。もう昼営業を終えようとしていた国道沿いのラーメン屋「千成や」に滑り込み遅めの昼ごはんを食べた。北九州で食べた豚骨よりこっちの方がずいぶん美味しいように思った。豚骨、何か苦手なんだよな。なんでだろ。美味しいお店のを食べてないからかな。千成やの看板メニュ―はネギラーメンと肉みそラーメンであるらしく、調べるといろんなレビューが出て来た。優しい味が欲しかった私は肉みそラーメンを注文した。玉ねぎとひき肉の甘みの中にタケノコの触感があって良かった。

 直方に来たのは林芙美子の育った町を見たかったからだった。『放浪記』に出てくる多賀神社と遠賀川が見たかった。地図で調べてみると多賀神社の隣りに石炭記念館というのがあって、そこにも行ってみようと思った。

 いざ着いてみて、直方駅の周りにも記念館にも原付を置く場所がなくて困った。結局駅前のローソンに停めさせてもらった。駅前には力士さんの銅像があって、寄って見ると魁皇関の像だった。福岡出身ということは知っていたけれど、直方だったのだな。九州場所魁皇が土俵に立つたびに大声援が送られていたことを思い出した。

 

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 うすうすわかっていたけれど、石炭記念館に来る人は少ないようだった。入場者名簿の今日の日付にはまだ3人しか名前がなかった。そこに私のようなけったいな大学生が来たものだから受付のおじさんは怪訝そうな顔で私を見ていた。入場の際には用紙に名前と住所を書かないといけないらしかったが——プライバシー的に不安だったので番地までは書かなかった——私が「兵庫県西宮市」と書くとおじさんはまた不思議そうな顔をした。私の顔がどう見えたか知らないが、もしかしたらまだ10代と思ったのかもしれない。私はよく高校生に間違われる。浪人時代には小学生と間違われたこともあった。

 

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 大学生高校生は50円、一般は100円だった。そのおじさんがチケットをくれて、この記念館について色々教えてくれたが、話が長くて困った。元々長居するつもりはなかったので、早く展示を見て回りたかった。この記念館は本館、別館、化学館、救護訓練坑道という4つの施設があるらしく、そのうち本館と坑道が国の指定史跡に登録されているらしい。直方で国指定史跡はここだけだとおじさんは誇らしそうに、でも少し寂しそうに言った。彼はまた御三家の話も教えてくれた。御三家とは明治以降、筑豊の炭鉱地帯を牛耳っていた麻生、貝島、安川の三つの財閥のことで、直方の炭鉱は貝島財閥のものだったらしい。貝島財閥の基礎を築いた貝島太助は直方生まれらしく、記念館と駅の間に彼の銅像があった。おじさんの話によると、彼らは資材を投じて学校を作ったり鉄道を敷いたりして近代化に貢献したようだった。江戸時代まで直方を治めていた殿様が黒田氏だった話などいろいろを聞いたけれど長いのでここでは割愛する。ちなみに直方は「のおがた」と読み、南北朝時代南朝方、つまり皇方で戦ったことに由来するらしい。

 自分ばかり喋って居心地が悪くなったのか、喋り疲れたのかわからないけれど、おじさんは私に急に話を振った。「そういえばどうしてここにこられたのです? 石炭か何か勉強している方なのですか?」ちょっと迷ったが、正直に林芙美子のことを言った。『放浪記』に描かれた街が見たくて直方に来たこと、原付で西日本を旅行していることを話した。「林芙美子ですか。あなたの年代ではめずらしいですね」と言ってから、直方と林芙美子に関する話おじさんはいろいろ教えてくれた。また長い話になったが、今度は真剣に聞いた。林芙美子の人気はやはり高いらしく彼女が住んでいた場所を突き止めようという試みや芙美子をしのぶ芙美子忌も毎年行われているようであった。『放浪記』が正しければ、林芙美子は12歳の頃、直方の木賃宿に暮らしていたらしい。彼女は尾道に越していくまで、須崎町の粟おこし工場で働いたり、炭鉱の社宅で父親が仕入れる扇子やアンパンを売りさばいていたのだ。受付の人たちの話では、記念館の近くの画廊に林芙美子に詳しい人がいるらしかったけれど、今日は遠出しているらしく会うことはかなわなかった。林芙美子の話がひとしきり終わってようやく私は解放された。

 

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 予想とは裏腹にとても面白い展示だった。坑道で実際に使われていた大きな機械は迫力があったし、坑夫の道具からは坑道での作業が苦しいものであったと感じられた。坑道が崩れないように支える木枠の形にも合掌枠、二段枠、諸枠、など様々なものがあるらしく、その場所や用途に応じているらしかった。時代とともに発達した技術によって採掘方法も変わっていく様子も知ることが出来た。はじめ、採掘した石炭は「かわひらた」という平たい船に乗せて運河で若松港に運んでいたのが、明治時代になると鉄道が登場し、直方駅筑豊の石炭輸送の拠点であったようである。記念館の前にも石炭を運んでいた機関車が2台展示されていた。本館の中にも直方駅の古い時刻表が展示されていた。今朝出発した小倉に行くには当時のお金で29銭かかるみたいだった。時刻表には九州のみならず西日本各地の地名が書かれていてワクワクした。明治39年には神戸~直方間が360銭だったようだ。見方がよくわからなかったけれど「三、六〇」と書かれていた。

 

 元素名で言えば「炭素」であり元素記号C。そういってひとくくりにしている中にもいろんな種類があった。「泥炭」「亜炭」「褐炭」「瀝青炭」「無煙炭」「せん石」など、受けた圧力や温度によって名前が違うらしく、採掘したそれらを精製して人間が使える形にするようだった。採掘したうち、使い物にならない石はボタと呼ばれ、ボタが積みあがってできた山をボタ山と呼んだらしい。盆踊りでよく流れる炭鉱節の歌詞に出てくる「おやま」はボタ山のことなのだろうか。

 石炭の呼び方と種類をまとめた表を前にして、あの日神鍋で見た石炭は何だったんだろうと思った。なんかどれでもなさそうだなと思った。急に高校で地学を勉強したかったなと思った。鉱物が陳列された棚や、石炭を精製する過程が詳しく解説する展示もまるっきり理解できなかった。高校では化学と生物の授業を取っていたけれど、楽しかったのは生物だけで、化学はちんぷんかんぷんだった。地学は旅行中に役に立つし、地理や植生とリンクする部分もあるから楽しかっただろうと思う。図鑑でも買って今から勉強でもしてみようか。

 別館には救護訓練坑道のことが詳しく展示されていた。炭鉱では昔から事故が起こったので、救護のための訓練も行われたようだった。救護隊が着ていた服が展示されていたが、古いものなのでどれもとても重そうだった。古い潜水服や宇宙服のようなものもあった。ほとんど中世ヨーロッパの甲冑のようなものもあった。ただ見る人が見れば、どれも貴重な資料なのだと思う。

 

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 事故があった現場には、有毒ガスの有無を調べるために鳥かごに入ったカナリアが持ち込まれたという話を読んで、SF映画の『メッセージ』でも宇宙人と対話する場面でカナリアがいたことを思い出した。エイミーアダムス演じる言語学者が主人公で、宇宙人のメッセージを解読のために呼ばれる場面から物語が始まるのだけれど、「言語を勉強する」「大学生」としてはかなり楽しめた。

 筑豊炭田だけでなく世界各地の炭鉱で起きた事故が壁一面の大きな表にまとめられており、いかに炭鉱労働が危険なものであったかわかるようになっていた。どのような人がどのような理由で炭鉱で働いていたのか気になった。強制的に労働させられた朝鮮人のことも知りたかったのだかれど、彼らに関する資料は無くて、少し残念だった。ただ、山近剛太郎という人の絵が展示されているのを見ると、炭鉱で働き死んでいった名もなき人たちのことが少しだけ感じられた。

 記念館を後にする際、受付のおじさんに次の行先を訊かれた。「今日の夜は大宰府です」というと、大伴旅人の話や、山上憶良の話をしてくれた。このおじさんはなかなか博識で、今も新しい知識をいれているらしく、令和の元号の元となった旅人の和歌を諳んじているのだった。最初は話が長いのに閉口していたが、聴いているとなかなか面白くて、出る頃には尊敬の念まで抱くようになっていた。おじさんに教えてもらった大宰府の知識は次の日に行った国立博物館で役に立った。

 

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 多賀神社自体は小さな山の上にある普通の神社なのだけど、小説に出てくる場所に来れたのはやはりうれしかった。多賀神社の近くで芙美子の母親がバナナのたたき売りをやっていた話や、馬の銅像に「いいことがありますように」といって祈っていた話を思い出して、陳腐ではあるがちょっと感動した。その昔彼女がいた場所に自分がいて、馬の目の前に立っているということがなにより素晴らしいことのように思えた。ちょっとうっとりした。

 もう夕方になっていたので、この旅行の無事を祈願してから神社を後にした。白いのぼりには、つがいの鶺鴒の神紋があってなかなかおしゃれなデザインだと思った。駅に行って現代の時刻表を見て、原付を停めていたローソンで九州でしか食べられないという竹下製菓ブラックモンブランを食べた。アイスはいつ食べても美味しい。

 

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 直方を出る前に遠賀川の河川敷に行った。緑色の草原と流れる水と暮れていく空を見ながら、つかの間ボーっとした。今から大宰府まで40キロも走るのは面倒だなあと考えていた。サンダルで川の中に入ると水が冷たくて気持ちよかった。ジーンズが少しぬれた。

 遠賀川彦山川が合流する場所に立って、地図を見ながら「あっちが折尾でこっちが田川かあ」などと独り言ちた。8月最後の土曜日をキャンプしながら過ごすらしい人のテントがいくつも河原にあった。空がオレンジ色になっていた。夕闇が迫っていた。

 

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〈付録『地下室の手記』〉

 ドストエフスキーの中編小説です。読んでいくと、主人公と私がとても似ているように思えます。感じやすいくせに頭でっかちで理屈をこねて自らを正当化し、世界を軽蔑し、また憎みながら日々を過ごしている主人公はグロテスクです。私はどうしても主人公と自分とが似ているように思えてならない。うまくやるために、どうにかして主人公を反面教師にする必要があると思いますが、それはとても難しいです。手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。

 

P109 第二部《ぼた雪にちなんで》9

 だが、このとき、ふいに奇妙なことが起った。

 ぼくは、万事を書物ふうに考え、空想し、また世のなかのいっさいを、かつて自分が頭のなかで創作したようなふうに想像する習慣が染みついてしまっていたので、そのときとっさには、この奇妙な状況を理解することができなかった。ところで、事実はほかでもない、ぼくによって辱しめられ、踏みつけにされていたリーザが、実は、ぼくの想像していたよりずっと多くを理解していたのである。彼女はこの長広舌から、心から愛している女性がいつも真っ先に理解することを、つまり、ぼく自身が不孝だということを理解したのだ。