シゲブログ ~避役的放浪記~

些細な出来事、思い出、映画や音楽、フィクションと詩

#66 わかってたまるか

 

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 LINEを開くのがおっくうである。先週ついに未読件数が3桁を越えた。異常事態だ。未読件数は精神の疲労度を測る指標の一つとされている。手元のマニュアルによると未読159という数値は「レベル4:不要不急の外出を避けるべし」に相当する。週末は家でゆっくりすることにしよう。

 LINEが大嫌いである。メールも嫌いだ。本当に言いたいことが伝わらない。電話や対面だと言い訳もできるし、表情とか声色とか言語以外のコミュニケーションがあるので言いたいことをより伝えられる。でも時間がない。それは私が悪いし、でも資本主義社会も悪いと思う。革命万歳である。

 文章でのコミュニケーションで特に困るのは小説や音楽、映画の感想を言い合う時。これ以上にないほどモヤモヤする。頭をフル回転させて作った文面も、こちらの真意が伝わるとはおおよそ思えないからだ。誰かと知り合った時、私はその人の好きな音楽や映画を知りたいと思う。その人が好きな本や映画は何か、学生時代にはまったミュージシャンは誰か。パンクなのかポップなのか。そういう情報があると彼や彼女のことがより深く複眼的に知れると思う。人となりが立体的に見えてくるのだ。「そのバンドとあの歌手が好きなのなら、これも好きなんじゃない?」なんて自分の知っている音楽をおすすめしたくなる。そういう時、頭の中で何かと何かが繫がった気がしてとても気持ちいい。その人がその音楽を気に入ってくれたりした時には、不思議な幸福感に包まれる。

 困ることに、音楽の好みや映画に抱いた印象というのは多分に主観的である。主観的な感想は、単純なわかりやすいものでない限り共感しにくい。主観的な感想が先行して混沌とした状況に陥るのを避けるために批評家という人達がいて、彼らは芸術を「客観的に」切り取ろうと努力するのだけれどそれもやはり主観の枠を外れることはないと思う。結局のところ「好き」「嫌い」「どちらでもない」の3点に収まるように思う。

 結局は批評も主観の枠を抜け出せない。でもそれをどれだけ客観的に語れるのかというのが批評家の腕の見せ所だと思う。もちろん批評の先に芸術の方向性を示すのが究極の目標だと思うけれど、読者が付いてこなければ意味がない。だからまずできるだけ多くの人が少しでも理解できるように解説するのが大事だと思う。「批評家」という肩書を偉そうにくっつけているくせに、理由も説明しないで映画をけなす人が時々いる。誠実であるべき職業の人に誠実さが見られないのはちょっと笑える。もしかしたら尖っているのがかっこいいと思っているのかもしれない。

 自分の気持ちを相手に送って、でもそれは理解されない。うまく伝わらない。自分では面白いと思うギャグも小文字のWだけじゃどんな反応かわからない。自分が考えていることが100%伝わるように長文を送ったこともあった。ひとつひとつ丁寧に説明しても空回りしているようにしか思えなかった。紆余曲折があってようやく私はわかりやすい言葉を選ぶのが無難だと気づいた。まず基本は「はい」と「いいえ」。それから「了解」。エクスクラメーションマーク「!」を2個重ねると強調表現になって意思が明快である。チャットに込めるメッセージをYesならYesNoならNoで一色に染める事。まどろっこしい「………」や「、、、」などを使うと相手は何を考えているのかわからないだろうし、不信感さえ抱きかねない。優柔不断で頼りない印象を与えてしまう。

「でもさ」と心の中でやっぱり叫んでしまう。「人生ってそう単純なものかよ! オラオラよ!」
「いろんなことをやいろんな人の気持ちを考えて、結局
YesYesと言い切れない、NoNoと言い切れないのが人生じゃない!!

 

 ある映画について私が感想を送る。

「教えてくれた映画を観た。エンディングがよかったね」

「分かる。確かにあのエンディングは○○だよね!」

相手の返信にはやんわりとした同意が書いてある。その返信を見ながら私は「いやあの素晴らしいエンディングを○○という軽い言葉で済まさないでくれよ」と思っている。○○という言葉じゃ収まらない悲しみと諦めと、でもその中に確かにある一つの煌めきと、そういうのがいくつも合わさっているのがあのエンディングじゃんか。それを「○○」一言だけで終わらせるなよ。

 狂っていると自分でも思う。どう言い訳してもへそが曲がった天邪鬼だ。悲しすぎる。自分にとって大事な作品であればあるほど、相手の評価に注文をつけたくなるのだ。もちろん上っ面では「いろんな意見があってしかるべき」と考えている風を装っている。「確かに。あのエンディング、○○で最高に△△だわ」なんて返す。実際に反駁してしまうのはちょっとダサい。

 チャットやSNSを使い始めた時、インターネットにいる人々と仲良くなれるにちがいないと思ってワクワクした。だが現実は違った。知れば知るほどわからなくなる。距離は遠くなる。ツイートを読めばその人のことを「理解した」気になる。その人の呟く苦悩に勝手に共感して、この人なら自分の悩みもわかってくれるのかもしれないなんて思う。でも全部まやかしで、本当のところは何一つわからないままなのだ。SNSの投稿やプロフは想像を掻き立てるけど、想像は主観であって客観ではない。そしてオンラインで見せる姿はその人の一面に過ぎない。もちろん頭ではわかる。でもその人と自分をつなぐチャンネルはSNSしかなかったりすると妄想がどんどん広がっていく。最悪の場合、SNSだけでその人のことを決めつけてしまうようになる。誰々はツイートで安全保障問題に言及していたからこっちサイドの人間なのだろうとか。あの歌手は味方だと思っていたのに、あの政治家を擁護するとは裏切られた気分だとか。勝手に身近な人のように感じて、勝手に喜怒哀楽するグロテスクな人たち。私も別に例外ではないのだ。

 

 「どうせ自分の気持ちなんて伝わらないのだ」という冷めた気持ちで送信ボタンを押す。「おまえなんかにおれの気持ちがわかってたまるかよ」とも思う。それはある種の怒りであり、「お願いだから俺の気持ちをわかってくれよ!」という懇願の裏返しでもある。

 人間は決してわかり合うことができない。そう諦めているのに、わかり合いたい、わかってほしいと思ってしまう矛盾。わかってほしいからツイッターで呟いてしまうし、今日もこうしてブログを書いている。客観的に見ても、ちょっと痛々しい。

 そのくせツイートやブログを読んだ人が「シゲってこういうことを考えてるんでしょ」なんて断定的に言ってきた時には一瞬でいきり立ってしまう。「お前にわかってたまるかよ!! お前なんかにわかるもんかよ」

 逆張りすることを、尖っていることをかっこいいと思っているイタいやつがここにもいる。

 

 

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〈付録『地下室の手記』〉

 1月に40ページだけ読んでやめてしまった本です。パラパラめくるだけでも難しい内容が目について、なかなか読むことができませんでした。ただなんとなく書き写すと意味がある気がするし、私は主人公を反面教師にしないといけない気がします。とにかくこれを機に読み進めたいと思います。

 いくつか訳はあるみたいですが、手元にあるものは新潮社から昭和四十四年に出ている江川卓の訳の五十七刷です。プロ野球選手と関係はないです。

 

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第二部《ぼた雪にちなんで》1

 

いうまでもなく、ぼくは役所の同僚と見れば、だれかれの別なく一様に憎み、しかも軽蔑していたが、と同時に、どこか怖れているふうでもあった。どうかすると、ふいに彼らが自分より一段上の人間に見えて、あがめだすこともあった。しかもぼくの場合、軽蔑するにしろ、あがめるにしろ、それが何かこうだしぬけにそうなってしまうのだった。知性をもった一人前の人間なら、自分自身に対する厳格さをつらぬき、ある場合には自分を憎まんばかりに軽蔑するのでなければ、虚栄心の強い人間にはなりえないはずである。しかしぼくは、相手を軽蔑するにしろ、あがめるにしろ、だれと会ってもほとんど例外なく、目を伏せてしまったものだった。実験までしてみたこともある。いま向い合っている人間の視線を最後まで受けとめられるだろうか、というわけだ。だが、いつも先に目を伏せてしまうのは、ぼくのほうだった。これはぼくを気が狂いそうなほど苦しめた。