シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#57 自殺について05/06/19

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はじめに

 まず、読みたい人だけ読んでください。この文章はあまり気持ちのいいものではないです。自殺について書いた文章なのは題名でわかると思います。自殺した人に対して、残された人は思い思いのことを口にします。肯定的に言うこともあります。「信念のために死んだ」とか「この世界で生きるには優しすぎた」とか「国を守った」とか。ただ私は自殺をポジティブなものとはどうしても考えられません。もちろんその人にはその人の考えと状況があるし、その人の命の使い方について私がどうこう言うことではないのだけれど、やっぱり自殺はよくない。自分で自分の命を途切れさせるというその行為を肯定することはできません。かといって否定も出来ないのですが。

 以下本文です。読みたい人だけ読んでください。

 

 

本文

 原付を買った。さっそく旅行をした。真夜中の山道を走ったら本当に一人だった。

 私は旅が好きだ。旅の良いところの一つは、死を間近に感じられることだと思う。日常から離れて非日常に入ると、当然、住み慣れた家も部屋もベッドもない。自分で自分の生を間に合わせないといけない。

 ちっちゃなバイクで夜の国道を走る。自動車がどんどん私の右側を追い抜かしていく。私の体は風にあおられる。ヒヤリとする瞬間がいくつもあって、そのたびに私は自分で自分の命を守るというリアリティに触れて生と死を実感する。得体の知れないゾクゾクとした気分。小さい頃から死に魅せられてきた。

 包丁を胸に突き立てたらどうなるのか、この窓ガラスを突き破って下に落ちたらどんな気分になるのか。そんな想像を私はずっとやめられずに生きてきた。好奇心は罪ではないけれど、自分の自殺する姿を想像することはあまり趣味がいいとは言えない。それどころかかなり歪んでいる。でももしかしたら案外多くの人が想像するのかもしれない。

 ただ、私はどんなに思い詰めても、つらくても、リストカットすらできなかった。刃を立てる瞬間を想像しただけで体は固くなってしまうのだった。肌ににじむ血や、皮の間から覗く肉を想像するだけで表情がひきつるのがわかった。胃がぐらりと揺れて吐きそうになる。どこまでもつらい夜があっても、私は恐怖に勝つことができなかった。狂ったように歌ったり、大声を出したり、物を投げることで埋め合わせるしかなかった。臆病者だと思ってそんな自分を恥じたこともあった。もちろんその臆病こそが私を生かしたのだけど、当時はそんなことわかりっこなかった。理性を捨てた無鉄砲にあこがれた。

 小さい頃、自分が自殺することが怖かった。ひどい癇癪持ちだということはすでにわかっていたけれど、コントロールする方法がわからなかった。常に欲求不満を抱えているのに、学校や保育所のような大人がいる場所では「いい子ちゃん」を演じないといけなかった。家に帰ると学校とは違う自分が首をもたげるのがわかった。3歳下の従弟をいじめ倒した。祖母も母も誰も私のことを理解できなかった。自分のことを悪い子だと思っていたけれどどうすればいいのかわからなかった。結局私が考えついたのは自分で自分を罰することだった。

 

 

 大河ドラマで『新選組!』がやっていた。三谷幸喜が脚本を書いていたので面白かった。規律に違反した隊士が切腹を命じられることがあって、ドラマでは切腹介錯のシーンがあった。私はそうした「侍」の姿に感動した。かっこいいと思った。『新選組!』だけでなく、日本史には自殺を肯定的に描く物語が多い。敦盛を舞った信長のエピソードは本能寺の炎とともに美しく感じられるし、茶器と共に死んだ松永久秀の最後も豪胆で潔い。『新選組!』でも、堺雅人演じる山南敬助切腹するシーンも感動を呼ぶ演出になっていた。そうした自死を尊ぶ風潮は現在にも残っていると思う。『新選組!』を観ている私にとって、切腹はかっこよかった。自分の命を賭してまで守るべきものがある人々の生き方をかっこいいと思い、また美しいと思った。しかし今冷静に考えると「切腹」は単なる「自殺」である。死を悼むのはいいが、ただただ礼賛するだけだとしたらそれは健全でないと思う。

 

 

 ウラジオストクからハバロフスクにいく電車で男の人に会った。もらった名刺を見るに、彼は極東剣道協会の幹部らしくて(名刺にはdirectorと書かれていた)、つい最近にも東京の大学で練習試合に行ってきたところだと言った。見せてくれたスマホ画面には胴着をつけた数十人のロシア人と日本人が写っていた。大学の道場で撮った集合写真だった。彼は泉岳寺にある赤穂浪士の墓に行ったことを話してくれた。武士道を礼賛する剣道家の前で、私は何となく気まずさを感じた。別の文化に育った人が日本の歴史や思想を知ってくれていることはすごく嬉しいのだけど、武士道は好きではない。現代の私の感覚からすれば、赤穂浪士は単なるテロリストである。彼らの物語の肝となるのは、主君の仇を討った忠義心だけれど、まず殺人はよくない。人を殺した話が美談になるのはおかしい。最後に彼らは切腹させられるわけだけど、敵討ち自体に自分の命を払う価値があるはずがない。今とその時じゃ価値観は全く違うのは当たり前だけど、彼らの行動はまったくもって人間らしくない。上下関係の厳しい社会のせいで命を軽く扱いすぎていると思う。

 私はロシア人の彼に対しておおむねそんなことを言った。会話はそれで終わってしまった。赤穂浪士の話題で盛り上がると思っていたかもしれない彼には悪いけど、そこで自分の意見を言わないのは違う。

 

 

 ある日、私の母が乗った電車が人身事故に巻き込まれたせいで、保育所に迎えに来るのが遅くなったことがあった。いつもは5時台にくるのに、その日は6時過ぎになっても母は来なかった。一本の電話が入って、保育士さんが私に迎えが遅くなることを伝えた。保育所では6時になってもお迎えが来ない子どもはジュースとお菓子をもらえることになっていた。めったに食べられない甘いものが食べられるので嬉しかった。つい半時間前まで電車に閉じ込められていた母にジュースとお菓子で満足した私は言った。「おかあさん、あしたもおそくにむかえにきていいよ」

 ほどなくして私は「人身事故」というものの多くが自殺であることを知った。

 

 

 同じ自殺なのに侍の「切腹」と現代人の「とびこみ」では、全く異なる文脈で語られるのが不思議だった。一方は尊厳を守るための死であり、一方は忌むべき死であるように思った。ある日、新聞で学生が自殺したニュースを知った。中学生だったか高校生だったかの飛び降り自殺だった。年齢のたいして違わない「子ども」が自殺したことが衝撃的で、その後の一週間、死んだ女の子のことを考えていた。恐ろしいと思った他方、自分で死を選んだ行為は崇高なものであるように感じた。

 

 

 ある時、先生がみんなの前で私を叱った。私は立たされてみんなが笑った。恥ずかしかった。それまで「いい子ちゃん」で通して来たのにすべてが水の泡になったと思い、その女教師を憎んだ。厚化粧も、白髪交じりの髪も、全てが醜いと思った。私は彼女をにらみつけ、その目つきでまた怒られた。笑い声が聞こえる教室で私は確かに思った。「こんな先生、死ねばいいのに」

 すぐに我に返った。自分の中に湧いたその感情を恥じた。恥じるどころでは済まなかった。びっくりした。自分はとんでもないことを考えている。他人の死を願うことが許されるはずがない。そんな願望を抱くこと自体がいけないことだ。早く捨てないといけない。一瞬心に湧いただけの黒い感情に私は驚き、そして怖くなった。突然自分の知らない「私」が現れて教師の死を願ったのだ。自分が異常な人間だと思った。いつか殺人者や犯罪者になってしまうのではないかとさえ考えた。それは一瞬にして心に湧いた感情で、強いものではなかったけど、ある意味ですべてを変えてしまう力があった。優しい人間になりたいはずだったのに鏡をのぞくとそこには自分の知らない顔があって、私はゾッとした。

 他人に対して「死ねばいい」と感じたことを、誰かに相談したかった。だが、今と変わらず昔も臆病だった私は、相談する勇気すらなかった。他人に異常な子どもだと思われるのは嫌だったから独りで悶々と悩み続けた。かねてから、従弟に対する暴力を止められない自分がおかしいと日ごろから思っていたけれど、この一件を境に私は自分の暴力性が異常であることを確認した。そして自分を責めた。

 その日から叱られたり悪いことを考えるたび、自分を罰するようになった。壁に頭を打ち付けたり、壁を殴りつけたりした。これ以上悪い行いを出来ないように自分の体を椅子に括り付けようとしたこともある。体を痛めつける仏教の修行にもあこがれたし、絶食にもあこがれた。最終的に見つけた答えが自殺だった。むかついただけで人に「死ね」なんて思う度、そんな風に思う自分が悪だと思った。人の死を願うような子どもは死なないといけないと感じた。それが必然だった。

 でも死ねなかった。

 

 

 いつか自殺しないといけない、そう思いながらその後の何年間を生きた。母に怒られる度、祖母に逆上してしまった後、私はまた感情をコントロールできない自分にがっかりした。死なない限り、その致命的な欠陥は取り除かれないのだと考えていた。忌むべきドロドロしたものを心の底に忍ばせて生きているように感じた。人前で負の感情を見せてしまわないように誰ともしゃべらないように決めた時もあった。死なないといけないと思いながらそれでも生きた。生きるのをやめることは難しかった。そのうちになんとなく楽しくなってきて、夢とか好きなものができた。生きる理由ができた。

 ある日読んだある本に、「人間にはいろんな側面があってそのどれもが自分自身なんだよ」みたいなことが書かれてあった。それを読んで少し楽になった。

 

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あとがき

 整っていない文章ですが、書かずにはいられませんでした。読みにくくてごめんなさい。

 もしかしたら大勢の人には理解できないかもしれない。共感を得られないかもしれない。けれど世の中にはこんな人もいるんですと言いたかったし、もし仮に似たものを抱える人がいるとして、その誰かに届いたらいいなと思って書きました。おこがましいことです。そんな人いないかもしれないのに。

 この話は根が深いので、とりあえずここでやめます。また新しく考えたことがあれば書こうと思います。最後に、このテーマに合う曲を紹介して終わります。

 ゴールデンウイークは終わりますが五月病にはくれぐれも気を付けてください。ではでは。

 

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〈付録~50年前の高野悦子~〉

 20196月末までの間、ブログの終わりに、高野悦子著『ニ十歳の原点』の文章を引用しようと思います。『ニ十歳の原点』は1969年の1月から6月にわたって書かれた日記なのですが、読んでいて思うことが多々あるので、響いた箇所を少しずつ書き写していこうと思います。何しろ丁度50年前の出来事なので。

 

五月二日

 私は人を信じているのだろうか。ひどく皮肉っぽくなっている自分に、昨日気づいた。私の人を愛する心、やさしさなんていうのは、自分を保全しようとする上でしか成りたっていないんじゃないか。国家権力を憎むように他の人間を憎んでしまっているのだ。

 沈黙は金

 心の中でも、余計なおしゃべりはするな。

 私は私の歴史をさぐっていこう。