シゲブログ ~避役的放浪記~

日々の些細な出来事、昔の思い出を書いていきます

#10言葉の限界 その2

 

#9のつづき)

 

 「星の王子さま」を読んで半年たった後、私は軽いうつ状態になった。周囲にあふれるとげのある言葉が辛くて家に引きこもっていた。クラスメイトの、物事を言い切るような言い方が許せなかった。私の席の後ろで繰り広げられる悪口の連鎖に傷つき、一方的な見方で相手を決めつける態度がどうしても受け入れられなかった。彼や彼女を憎んだ。16歳だった。

 しかし、それ以上に受け入れられないことがあった。それは自分自身も「相手を決めつける」言葉を使っていることだった。私はクラスの中の何人かを「悪口ばかり言うやつ」として警戒して接していたが、そうやってレッテルを貼っている自分も、他人を「決めつけて」かかっているのだった。彼や彼女らと自分が違う種類の人間だと思い込みたい私は、せめて「決めつけた」言葉は発しないようにと思って、他人と必要以上にしゃべらないようにした。これによって「決めつける言葉を使わない」という試みはある程度成功した。しかし、同時に、口数を減らしたせいで楽しい時間も減った。そして、大事なことには、その解決策は本質的なものとは到底言えなかった。言葉にしないだけで、頭の中で考えていることには何の変化もなかったからだ。

 私は他人にも自分にも嫌気がさしていた。ごく親しい友人と話す以外は、ひたすらに一人で日記を書いていた。日々のもやもやをすべて日記の中にぶつけて、他人に対する悪口と不満を書くようになった。クラスメイトに見られるとまずいから、自分にしかわからないような名前を勝手につけて、日記の中でこきおろしたりほめたりしていた。授業中も行きかえりの電車でも、私は日記を書いていた。楽しかった。日記と部活と映画ばかりに時間を使っていた。返ってきた数学のテストをみると27点だった。

 

 今でもそうなのだが、当時の私の苦悩は他人の言葉を必要以上に信じすぎてしまうことにあったと思う。ある意味で純粋だったのだ。他人の悪口や決めつけを「絶対のもの」として捉えてしまって、無意味に傷ついたり、反感を持ったりしていた。担任のヒゲ先生は私のことを「くそが付くほど大真面目」と評したけれど、当時の私は自分の真面目さをまだ相対化して理解できていなかった。「そんなに真面目じゃないけどなあ」ってくそ真面目に思っていた。

 私のリテラシーは高校時代とその後の数年間、ゆっくりと成長した。ちょっとずつ世の中がわかっていって、多くの人が本音と建て前を使うのがわかってきた。他人の言葉をうのみにすることはほとんどなくなった。自分の発言にも「真実だけを言おう」と考えて、萎縮して話すのではなく、ある程度割り切って楽しく話せるようになった。

 それでも、他人の言葉を聞き流すことをようやく覚えれたと自覚したのは去年のことだ。詳細は省くけど、自分の道は自分で決めよう強く思う出来事が年始に起こったのだった。人生は短いのだから、他人の言葉に惑わされることなく自分のやりたいことをしよう。そう思った。

 

 一歩引いた眼でみると、私の周りには他人を惑わせるような言葉が山ほど転がっていた。純粋であれば純粋であるほど、だまされやすい世の中に見えた。若者の感じやすい精神に訴えて、挑発し、こっちのものにしてやろうという連中がいくらでもいた。こういう人たちに対して私はどう接していけばいいのかまだはっきりとはわからない。みんな生きるために必死なわけだし、お金を稼がないといけない。ごはんも食べないといけない。それでも人の不安をあおったり、だましたりしてお金をだましとるような商売は大嫌いである。

 

 言葉は難しい。発するときにも、受け取る時にも気をつけないといけないみたいだ。誰かを傷付けないよう自分が迷わないように慎重にならないといけない。しかし慎重になりすぎて個性が失われるのはもっと悪い気がする。身の振り方がとても難しい。それなのにSNSもテクノロジーもどんどん加速して、情報量だけが、目いっぱいひねられた蛇口からどんどん流れていく。いやあな時代に生きている。

 

 去年、山形で出会った人が面白いことを言っていた。

 その人は登山が大好きで山小屋を渡り歩いているような人だった(何回かしゃべったけれど本来の職業をきちんときいたことがない)。「極端な話なのだけれど」と前置きをした上でその人が言いだしたのは、「言葉のない世界で生活したい」ということだった。最初はよくわからなくて「宗教の話だったらめんどうだな」とか思いながら半信半疑で話を聞いていた。彼は本物の自然の中で言葉を使わずに生きたいと言っていた。人間のつくった虚構の世界ではなくて、純粋な自然の中で生きたいのだと。だから一人で山に行くのだと。

 SNSとかテクノロジーに触れるたびに、人は、汚れて自然から離れてしまうのだとも言っていた。極端な話だったけれどなんとなく同感だった。過激だとは思うけど一理あると思う。

 猿の時代は言語を使わずに意思疎通をすることができたのに、今では言語なしではコミュニケーションできなくなってしまったのだ。文明のおかげで得たものもたくさんあるけれど、本来持っていた野性的な強さが失われてしまっていると酒を飲みながら話していた。

 

 その人の話は、やはりかなり極端だと今でも思う。けれど、スマホのせいで人間がダメになってしまっているのは私も実感することである。考える力と想像する力が日々奪われている。そして都市に住む我々は、本来は当然ではないものを当然のものだと思うようになってしまった。ごみは出しっぱなしでどこに行くのかも気に留めない。肉はスーパーでトレーに乗っかっているのが当たり前。下水の行きつく場所なんて考えたこともない。平気でご飯を残す。人間は確実に弱くなっていると思う。

 みんながみんな生活感のないままに生活しているような気がして、時々そんな自分たちの生活が気味の悪いものに思えてしまう。実態の無い暮らし。そんな風に思って不安になる。

 都市に育った私だが、いつかは土に向かい、地に足がついた暮らしがしたい。

 

 

 言葉の話を書こうと思ったのに、最後は文明についての話になってしまった。これではタイトルが大嘘である。話をあちこちに飛ばし過ぎるのは悪い癖だ。しっかりまとめないと。

 なにはともあれ、この文章を読んでみんなはどう思うのだろう。