シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#28 パフパフホーンとドライアイス

 

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 小学校の友達と二人で飲んだ。成人式にLINEを交換してまた会うようになった友達である。その夜、酔った私の脳内にはたくさんの懐かしい映像が浮かんで、宇宙の果てアルコール星雲のかなたへ消えていった。

 

 大方の自転車のベルは「チリンチリン!!」と鳴るのけれど、彼の自転車は「パフパフ!!」と音の鳴るタイプだった。「パフパフ!」その音で彼がやって来たことがすぐに分かるのだった。そんな小さなことばかりいくつも思い出していた。

 

 ラーメンを食べて、それから居酒屋に行って合計4時間ぐらい話したのだけれど、昔の友達やクラスメイトのことを話すだけで時間が過ぎた。居酒屋ではたまたま他の同級生も飲んでいてみんなで昔話をした。

   彼と同じクラスだったのは小学校の4年と6年の時だった。小学生って気まぐれだし、別に彼とずっといたわけではないけど、話すといろいろ盛り上がった。

 4年生の時、自分の好きなことについて調べる「自主勉強」という、いかにもゆとり世代的な宿題が導入された。自分の興味のある事柄について調べたりしてそれを先生に提出するのだ。テーマはなんでもよかった。私は新聞記事やニュースをまとめたりしていた。他の子は魚の図鑑に載っている知識を書き写したり、ダジャレを思いつけるだけ書きなぐったりしていた。だいたいみんな手を抜くときはいろいろな国旗を色鉛筆で写していた。私も面倒な時は絵を描いてごまかしていた。その宿題が好きだった。

 ゆとり教育で、楽勝な宿題だったけれど、興味の幅が広がったし、友達のノートにはそれぞれの興味がある事柄が三者三様に書かれていて、面白かった。「そんな宿題あったなあ!」と彼は言った。

 私は当時好きだった女の子のことを話すと、彼も好きだった女の子のことを教えてくれた。意外な名前が出てきてびっくりした。

 

 4年生で今の家に引っ越した私は転校生だった。おまけに1年間病院に入院した後で松葉杖をついていて友達ができるか不安だった。歩けない時間がかなり長く続いて、すっかり自信を無くしていた。彼はそんな時に友達になった一人である。彼とは神社や公園で毎日のように遊んだ。池でブルーギルを釣ったり公園でケイドロをしたりした。私が歩けるようになってから、春休みにみんなで甲山に上ったこともあった。懐かしい思い出である。

 4年生の時、母がチャップリンの映画にはまってよく家族で映画を観たりしていたのだけれど、同級生で彼だけがチャップリンのことを知っていた。「担え銃」でチャップリンが敵兵から逃げ回るシーンをコミカルに演じる彼に感心したものだった。

 

 

 4年生のある日、いつもの公園に集まった私たちのグループはなぜかスーパーに行くことになって、その中に彼もいた。道を挟んだところにあるマックスバリューでアイスか何かを買おうということになったのだと思う。レジが終わったところで急に仲間の一人がドライアイスを袋に詰め始めた。みんなも真似をして、ぱんぱんにドライアイスを詰めた袋をいくつも公園に持って帰った。最初は白い霧を見て楽しんだりしていたのだけど、誰かが袋に水を入れ始めた。猛烈な勢いでぷくぷくと泡が出てきた。それを眺めながら私たちは騒ぎに騒ぎ、ふざけあっていた。興奮していた私たちは、R君がドライアイスと水をあたりにまき散らし始めたのを皮切りにドライアイスの袋をお互いに投げつけ始めた。ただただ楽しくて楽しくて仕方なかった。

 

 「あの時どうしてあんなに楽しかったのか今では説明できない」みたいなことを彼が言って、私も全く同意だった。多分あの時の感情は今よりももっと原始的で素直だったのだろうと思う。「楽しい」と「楽しくない」という感情が今よりも大きくはっきりとあって、「危ない」とか「怒られる」といった感情はまだ小さかったのかもしれない。

 いずれにせよ、私たちの行動を見て「危ない」と思った大人が警察だったか学校だったかに電話して、翌日私たちは担任に怒られた。「なんでこれぐらいで電話するんだよ」とその時は不服だったし、怒られてもドライアイスが「危ない」とは到底思えなかったのだ。やがて、マックスバリューのドライアイスは勝手に持ち帰れないようになった。至極残念だった。

 

 

 成人式の後、私は高校の同窓会に行ったのだけど、地元では中学の同級生で集まっていたらしい。何人かの友達について聞くと、彼らの現在について教えてくれた。いろんな人がいて、結婚した人もいた。警察学校に通っている人もいたし、病んで引きこもっている人もいた。私たちのような大学生もいたし、高卒でばりばり働いている人もいた。何年も会ってないから、私の中で彼らはまだ小学生のままなのだけれど、現実世界の彼らはもう21歳になっている。悪かった性格がよくなった人もいるみたいだし、だいぶ変わってしまった人もいるみたいだ。私は今もこの街に住んでいるけれど、もう全員と会うことは無いのだろうと思う。道ですれ違ってもわからないかもしれない。そう思うと少し悲しい。

 

 私は中学受験をして以降、地元の友達とは疎遠になってしまった。月日が経って成人式で再会した私たちはLINEを交換した。ただの「友達」としてLINEのアプリの中に居続ける存在になる可能性もあったわけだけど、どちらからともなく連絡してまた会うことになった。これからも彼とは定期的に会うと思う。不思議だなあとも思う。

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#27 再び台北。

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 827日。

 困った状況にある。まずお金がない。今日の朝の時点で手持ちには300元しかなかった。おじいちゃんが餞別でくれたアメリカドルを数えると96ドルあってそれを銀行で両替した。ただ、私が50ドル紙幣だと思っていたものは50ミャンマーチャットで、銀行の人に替えられないと言われた。50ドルと50チャットは全然違う。損した気分だ。結局その46ドルだけ両替した。

 

 それからスマホの充電がない。なんとか1120分の電車に乗ることが出来て、今日の夜会う人に連絡したりしたのだけど、なぜか電池の量が少ない。昨日の夜中に充電していたつもりだけど、どうもコンセントが抜けていたみたいだ。台北まで4時間ほどの道のり。私は極力スマホを使わないことにした。かわりにずっと本を読んでいた。

 

 さらにはサンダルがとても臭い。一昨日から実は気にはなっていたが、もう知らんぷりが出来ないほどに臭い。電車で座っていても時折匂いが鼻まで届く。恥ずかしい。墾丁で海に入り、南の端まで歩き、花蓮でも太魯閣と街中を歩きに歩いたサンダル。お疲れ様である。昨日匂いに耐えかねてお風呂で洗ってみたのだけれど結局あまり効果はなかった。なにしろこの一か月ほぼ毎日履いているのである。一度洗っただけではだめなのだろう。

 ちなみにこのサンダルはインド製である。ヤンゴンダウンタウンで買ったものだ。ミャンマーに行った時、毎日ビーチサンダルで歩いていたのだけど、そうしていると親指と人差し指の間の皮がむけてしまった。痛さに耐えかねた私はマジックテープのついたサンダルを買ったのだ。私はこのサンダルと共にヤンゴンの街を歩き、バガンでバイクに乗ったりした。思い出のあるサンダルである。

 

 花蓮を出た列車は次から次へと田舎町を過ぎていく。花蓮から宜蘭まで2時間ほど。そこから台北までまた2時間。台湾で初めて電車に乗った時は1駅ごとに駅の写真を撮ってみたものだけれど、もうそんなことはしない。私は椅子に座ってずっと林芙美子の放浪記を読んでいた。大正時代の女の生活が鮮やかに描かれている。作家になる前の芙美子が、書いた詩を出版社に持っていっては突き返されるというのを繰り返していた。時々、列車は海沿いを走った。読書に疲れると、私は顔を挙げて海を見ていた。

 

 花蓮で乗った時、空いている席は優先席しかなかった。前にはお母さんと4歳ぐらいの女の子が座っていた。二人ともずっとスマホをみていた。時々女の子のスマホから音が漏れて、気が散った。宜蘭でたくさん人が下りたので私は席を移った。

 台東から花蓮まで移動した時とは違って車両にたくさん人がいた。バスケットボール部の少年たち、ヨーロッパからきたカップル、登山を終えた中年の集団、宜蘭から台北に帰る女の子三人組、猫を二匹連れて移動している夫婦。いろんな人がいて、観察していると面白かった。スマホを見ている人が多いのは日本と同じだった。海が見えても川が見えても窓を見ているのは私だけだった。

 

 今日は10時に起きて、急いで準備をした。4日間過ごしたホステルを後にして銀行へ急いだ。後ろ髪を引かれる思いだった。とても居心地のいいホステルだったのだ。カウンターでケビンとマレーシアの女の子、台湾人の夫婦にサヨナラを言ってホステルを出た。本来であればゆっくりお別れの時間を過ごしたかった。でも今朝の私にはお金も時間もなくて、感傷的になる余裕がなかった。写真だけ撮った。また来ようと思う。本当に来るかどうかはわからないけれど、思うのは自由だ。

 

 台北に着く。メトロに乗って中正紀念堂駅に向かう。友達との約束までまだ時間があるので中正紀念堂を歩いてみる。とてつもなく大きな蒋介石の像があって、衛兵が立っていた。日本人観光客がたくさんいた。大きな広場と建物というだけで、そんなにすごいものではないような気がした。「こんなに大きなものを作れるお金があるのなら、困ってる人を助けるべきなのでは?」  私の中の天邪鬼が呟く。天邪鬼は観光地に行くとよく出てくる。

 写真を撮っているとスマホの電池がなくなってきた。慌ててカフェを探して入る。充電できるカフェは一つしか見つからず、そのおしゃれでお高そうなカフェに入る。お金がないのに170元もする抹茶ラテを飲むはめになる。本当はコーヒーがいいのだけれど、おなかを壊しているので、暖かい抹茶ラテを飲んだ。抹茶ラテなんて日本でも飲んだことがない。おいしかった。あったかくて落ち着く味がした。

 

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 7時になって待ち合わせに行く。金峰魯肉飯というお店でご飯を食べる約束である。KCはちょっと遅れてきた。彼女の会社から中正紀念堂駅は少し遠い。彼女の会社や家に近い場所でご飯を食べることにすればよかったなと後悔した。地下鉄の改札近くで会って地上へと上がると雨が降っていた。トランクもあるのとで困った。どうにか店に入って注文する。KCが注文を全部してくれた。ご飯はめちゃくちゃおいしかった。「台湾、どこに行ったの?」とか「中国語話せるようになった?」とか聞かれた。花蓮、台東、墾丁、台南にいたことを話した。台南のご飯はおいしかったこと、ちょっと甘すぎたこともあったこと、花蓮の街が心地よく感じられたこと。KCは台南で勉強していたこともあったし、昔は花蓮にも住んでいたから、話が弾んだ。

 「中国語話してよ」と言われて私は中国語で自己紹介をした。なぜか同じテーブルの向かいに座っている男の人にも自己紹介をした。発音が悪いから彼らの耳には「わーたしはにーほんじーんです」という風に聞こえているのだろう。恥ずかしくて仕方がない。それでも習った中国語を何とか思い出して話した。

 その後KCと男の人は台北で私の行くべき場所を探してくれた。私は淡水の紅毛城と十三行遺跡に行きたかった。結構遠くて自転車では厳しいかもしれなかった。代わりに龍山寺というところをKCはおすすめしてくれた。男の人は30代の人で生まれてこのかたずっと台北にいる人だった。彼も十三行の博物館を調べてくれた。彼とKCは今日初めて会って話した訳なのだけど、台湾ではどうも知らない人同士で話したりすることはよくあることのようである。いい文化だと思う。

 晩御飯に満足した私とKCは帰ることにした。雨がひどくなっていた。去年の11月に北海道で会って15分ほど話して別れただけなのにそれから私は2回も台北に行き、その都度KCと会ってご飯を食べた。SNSがなければこんな風に何回も会えるということはなかったと思う。地下鉄の座席で不思議だねえと二人で話した。写真を撮って別れた。

 

 今日は江さんの家に泊めてもらうことになっていた。最寄り駅まで行くと江さんは車で来た。整ったフラットに彼はお姉さんと住んでいた。江さんもお姉さんも日本語がかなりできる。言語のことや日本のいろいろ話すと楽しかった。猫が二匹いて彼らと遊ぶのも楽しかった。江さんがギターを弾いてくれて私も歌った。レミオロメン39日を歌った。私も尾崎豊の卒業を下手くそながら弾いて歌った。最近弾いてないからますます下手になっていた。音楽のことでかなり盛り上がって「夏に流れる音楽」は何かという話になった。お互いに中国語の曲と日本の曲を紹介してYouTubeでその曲を聴いた。

 

 

 81日に台北から始まった旅ももう終盤に差し掛かりとうとう手持ちのお金もなくなってきた。台南、墾丁、台東、花蓮に滞在した後、今日ようやく台北についた。お金や充電がないことに焦って必死になっていた私には感慨に浸る余裕は無かった。電気を消してソファーに横になった私は、その時になって少しだけ感慨にふけった。ソファーで寝れるのも江さんのおかげだった。この旅を通じていろんな人の優しさに触れた。ありがたいなと寝る前に思った。

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#26 ワールドカップと残り香

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 フランスの優勝でワールドカップは幕を閉じた。クロアチアは頑張ったけれどフランスは強かった。トリコロールを身にまとった選手たちがグラウンドを走っていく。優勝を記念したシャツが選手とスタッフに配られて、みんながおそろいになっていた。喜び方にも選手それぞれの個性が出ていて視ていておもしろかった。クロアチアの選手はみんな泣いていた。観ていて辛かった。テレビカメラはフランスの選手とクロアチアの選手を交互に映すから。感情がぐちゃぐちゃになって、微笑みながら泣いていた。次第に画面はフランスの選手が長い時間映るようになった。ロシアでのワールドカップなのに会場ではパイレーツオブカリビアンの音楽が永遠にリピートされていた。その裏でクロアチアのチームは円陣を組んで何か話し合っていた。

 好きな映画に「負けて泣くスポーツ選手」が好きな登場人物がいて、私は泣いているモドリッチを見ながらその映画を思い出したりした。そういえばあの映画はフランス映画だった。私が観た初めてのフランス映画。とっても良かった。

 

 

 私も負けて泣くスポーツ選手が好きだ。高校野球を視ながら毎試合毎試合泣いている奇妙な子供だった。初めてラジオで聞いた甲子園は天理高校青森山田の試合で、第86回大会の開幕試合だった。祖父母と母と車に乗っていて、みんなで実況を聴いていた。その試合は延長戦にもつれ込んだ末に天理が逆転して勝った。対戦相手のエースはまだ二年生だった柳田将利で、彼は次の年にも甲子園で活躍してプロに行った。でもプロの世界は厳しかった。あんなに速い球を持っていたのに活躍できなくて、私が知らない間に引退していた。

 その試合から私は天理高校を応援するようになった。紫の色を基調としたユニフォームがかっこよかった。その頃の私は紫色が大好きでけん玉の糸も紫にしていた。他の高校の帽子にはアルファベットの頭文字なのに、天理の帽子には漢字で「天」とだけ書かれていて、それも好きだった。その昔、奈良に住んでいたこともあってそれも天理高校を応援している理由の一つだった。今はそうでもないかもしれないけれど、私が小学生の頃、奈良の代表は毎年天理高校だった。

 第87回大会、天理は一回戦で負けた。相手は機動力で攻めてくる国士館高校。チームの中心は9番と1番を打つ高橋兄弟で、双子の彼らはめちゃくちゃ足が速かった。塁に出ると毎回盗塁を決めてくるのだ。9回の表まで天理が勝っていたのにエラーと高橋兄弟の好走塁で国士館が追いつき、延長の末に天理は破れた。味方の攻撃の時に天理のピッチャーが泣いていた。つられて私も泣いた。号泣した。阪神タイガースは負けてもまた次の日試合できる。でも彼らが甲子園でプレーできるのは今日のこの試合しかないのだ。

 

 

 「この一瞬は二度と来ない」ということが私は怖い。子供の頃日記をつけてたのだけれど、そこには毎日の出来事を全部書き残しておきたいといった軽い強迫観念があった。必死で記録を残そうとしていた。もちろんそんなことは不可能で、それに気づくたび私は悲しくなった。

 

 

 パイレーツオブカリビアンのテーマはまだ流れていて、フランスの選手は思い思いのまま嬉しさを表現していた。サポーターとみんなでバイキングクラップをしたり国旗を掲げて走ったり。観客も選手もスマートフォンを持っていて写真を動画をいっぱい撮っていた。奇妙な光景だった。

 スマートフォンで撮影をしているということは一歩引いた視点で自分の状況を見ているということだと思う。ということは100%その興奮に埋没していないということなのだろうか。電子機器は感動の濃度も薄めるのだろうか。いや感動を切り取って残せるのだから濃度が薄まるだけで感動の絶対量は変わらないのかもしれない。動画や写真は感動を何度でも呼び起せるのだからむしろ絶対量はこっちの方が多いのかもしれない。夜が更けていった。

 

 

 30分以上も彼らが喜んでいる姿を見ているとさすがにちょっと飽きてきた。間違いなく彼らにとっての人生のピークの一つで、選手もスタッフもこの瞬間を迎えるために何年も何年も努力してきたのだ。2年前のヨーロッパ選手権はフランス開催だったのだが、フランスは決勝でポルトガルに負けた。その悔しさをまだ覚えている選手もいるだろう。それでも私にとってはあくまでも他人事で、彼らの姿を見ながらこんなにも高揚感が長く続くものかと思った。多分、彼らの脳内には麻薬のような物質が出ているのだろう。それでも高揚は30分も続くだろうか。彼らはふと我に帰ったりしないのだろうか。不思議に思いながら見ていた。興味深かった。

 

 

 ようやくパイレーツオブカリビアンが終わって表彰式になった。大会MVPに選ばれたモドリッチはまだ浮かない表情でトロフィーを受けとっていた。彼は不思議な顔立ちだと思う。女性のようにも見える顔。表情によって老人にも見えるし少年にも見える。どんな性格なのか気になる。FIFAの偉い人と握手しても彼は終始悲しそうな表情をしていた。抱きしめてぎゅっとしてあげたいと思った。フランスの選手もやっと興奮が収まった様子でメダルを受け取っていた。メダルを受け取ったフランスチームはその後ワールドカップをみんなで掲げた。カメラマンがみんなで一斉にシャッターを切って金色の紙吹雪が吹き上げられた。またまた感動はピークに達しみんながみんなカメラを手にした。

 

 

 彼らの興奮はあとどのくらい続くのだろう。どんな風にして宿舎に帰ってどんな風に眠りにつくのだろう。明日も明後日も彼らは余韻に浸るのだろうか。ワールドカップで優勝し世界の頂点に立つというような興奮はどれだけの期間続くのだろう。気になる。

 これは推測だけど、負けたチームの方が余韻に浸る時間が長いと思う。フランスチームはケロッとしてメダルを受け取っていたがクロアチアの何人かの選手はメダルをもらってもうなだれていた。

 高校野球でも負けたチームがフォーカスされる。熱闘甲子園でも試合に負けて宿舎に戻った選手の様子や、晩御飯の様子が必ず映る。高校サッカーでも高校ラグビーでもそうだ。試合後のロッカールームに、宿舎に、テレビカメラは躊躇なく入っていく。大抵はうなだれたり抱き合ったりしていて、視聴者はそれを視て満足する。みんな負けて泣くスポーツマンが好きだから。でもどのチームにも切り替えの早いやつがいてそいつがみんなを笑わせてくれる。初めて笑った時、今までの暗い雰囲気は魔法のように消える。そこから段々と余韻が薄れていくのだ。

 

 

 それでも残り香はどこかにしつこく残っていて、一人になった時やお風呂に入るときにふらりとやってくる。それでも私を笑顔にしてくれた言葉は悲しさは薄めることができるし、自分は一人でないとも思える。そういう時「大迫、半端ないって」と言った彼はやっぱりすごいと思う。

#25 台湾の南の端を踏む

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 8月21日。

 波は寄せては帰っていった。紺色、濃い藍色だったうねりは岸に近づくにつれて色が薄まり、帰ってきた波とぶつかって白い泡になる。ビールのような泡はすすーっとこちらに向かってくる。泡になる前の一瞬、コバルトブルーが輝く。私はいつまでも海を見ていた。

 

 今日は一日中歩いていた。

 8時に起床すると、もう向かいのベッドでは香港の彼女が荷造りをしている。8時半に部屋を出て行った彼女は今日、花蓮に行く。乗合タクシーで。うとうとしてたら雨が降ってきて外に出れなくなった。下のベッドのやつがごそごそ動くので私のいる上のベッドも揺れる。彼はずっとスマホで動画を見ている。時折ひどい咳をしてベッドが揺れる。私はこのホステルがあまり好きではない。チェックインした時の不愛想な感じも、踊り場にかけられたオーストラリア土産と思われる気味の悪いコアラの絵も、ドミトリーの少し汚れた感じも、全部が全部少しずつ積み重なって負の感情が膨らんでいく。

 

 

  10時に部屋を出てコンビニで水を買った。しかしそこで雨が降ってきてまた足止めされる。もしかしたら今日のハイキングはもうあきらめた方がいいのかもしれない。天気予報を見ると一日中雨だった。私は仕方なくコンビニでカレーを食べて雨が上がるのを待つ。カレーはけっこうおいしかった。昔おじいちゃんに連れられて行った球場のカレーの味と似ていた。リゾート地で物価が高いからか、コンビニでご飯を食べている人も一定数いる。

 雨がましになって外に出る。しかしすぐにまた雨が降りだして私は自然公園の入り口でレインコートを着る。そこから車道沿いにどんどん登っていく。ハイキングコースだと勝手に思っていたけれど歩いている人は一人しかいなかった。ただ近くに有名な牧場があったり山の上に自然公園があったりするから通り過ぎる車は多かった。

 なにか道の端を動いているなと思って見ると、サワガニだった。よく探すと何匹もいた。見たこともない蝶や草木がたくさんあった。近くには大尖石山という山があった。その山の不思議な形と海が見えてきれいだった。2時間ぐらい上がってようやく下り坂にさしかかった。日差しが出てきてガチョウと鶏が陽気の中で散歩していた。草原が広がっていて木々が立っていた。風が強い場所らしく、根元から大きく斜めに生えた木が必死に地面につかまっているように見えた。

 半島の東側に行きたいので自然公園の遊歩道を突っ切っていくことにした。熱帯の薄暗い森の中を歩いた。所々に動物の足跡や糞が落ちていた。たくさんの種類の植物と虫たちがいた。棘のついた草や、もじゃもじゃの木。見たことのない赤い花やねむの木。私はいつも旅行に来ると、家に帰って植生について勉強しようと思う。でも一度も勉強したことはない。それは一種の旅の幻想だと思う。旅の途中に私はいつも「あれもしたいこれもしたい」と思うけれど、家に帰っても元の日常に戻るだけだ。何もしないし何も変わらない。感動も衝撃も家に帰ればただの思い出になるだけで、私を動かすわけではない。能動的に足を運んでいるように見えて、旅路の私は案外受動的である。

 昔昆虫館で見たような蝶が飛んでいた。どうしてだか私は映画「チャーリーとチョコレート工場」に出てくるウンパランドを思い出して一人でふふふと笑った。映画に出てくる熱帯雨林と目の前の遊歩道が少しだけ似ていた。どこかから小人たちがこちらを見ている気がした。

 何人かの子供連れの家族や若いカップルとすれ違った。展望台があって上ってみると一面の森の海だった。その向こうに薄く青い海が見えた。

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 半島の東側に出る道をどうしても見つけることが出来なくて私は焦った。何度もグーグルマップのアプリで確かめるもついに見つけることが出来ず、今いる場所がどこかもわからない私は心細くなった。風がびゅうびゅう吹いて今にも雨が降りそうだった。溶岩が固まってできた岩がたくさんある場所に出て少し怖かった。ぬかるんだ道には誰の足跡も残っていなくて、いよいよまずいかもしれない。雨が降りだしたら大変だなと思った。こんなところで蛇に噛まれたりしたらもうおしまいなのだろうなと思った。そう思う一方、私は宮沢賢治を思い出していて彼がこの道を歩いたらどう思うだろうかと空想した。溶岩や赤土、色とりどりの蝶、カニ、生い茂った緑。そのどれもが急に賢治作品の主人公のように見えてきた。家に帰ったら銀河鉄道でも読もうかしら。彼が学生時代に岩木山に上っていた話やグスコーブドリと火山の話を思い出したりした。

 

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 急に視界が開けて丘の頂上に出た。なぜかそこだけ草原が広がっていて、人の手の加えられた跡があった。海と山が見えて、私は東にはほとんど進んでいないことが分かった。雨水がたまってできた池に魚が泳いでいた。トイレの場所を示す標識があってどうやらこの道を進むともと来た場所に戻れるらしかった。がっかりした半面、少しほっとした。結局のところ私の探検は同じところをぐるぐると回っただけで終わった。しかしいろんな不思議な生き物、植物を見ることが出来た。なぜかトマトが道の端に自生していた。

 

 

 ヨット石というところから幹線道路沿いを歩くことにした。目的地は台湾最南端、道のりは大体5キロぐらい。海沿いを歩くからさぞ素晴らしい景色が見えるだろうと思っていたのにゆけどもゆけども防風林しか見えない。波の音や匂いですぐそこに海があるのはわかるのにもどかしい。おまけに日差しがきつくなって日焼けした首や顔がひりひりしはじめた。原付や電動バイクに乗った観光客が次々に私を追い抜いていく。国際免許証がないので原付には乗れないが、電動バイクなら私も乗れる。ヨット石のところの店でレンタルすればよかったと少しだけ後悔した。さらに悪いことにサンダルが擦れて痛くなってきた。汗でふやけた足がサンダルの紐とと擦れて赤くなっている。私は少し休憩した。

 砂島と言う場所の景色がきれいだった。何年も前のサンゴ礁と溶岩が岩になっていてそこに波が打ち寄せていた。いいなあと思った。

 

 「南の端はこちら」みたいな看板が立っていて、そこから小道が続いていた。あと少しで南端だというところで若者が一人でギターを弾いていた。そこは木立の中だったのだけれど、彼の音楽は蒸し暑い熱帯からおおよそかけ離れた、涼しいおしゃれなもので、私はそのギャップに笑ってしまった。かなり巧い弾き手だった。小さな声で歌っていたけどそれも良かった。

 南の端といってもそこはなんて事のない普通の海である。たくさんの人がそこを訪れては帰っていった。子供連れが多かった。私は手摺にもたれかかって海を見ていた。虹が一瞬できてまた消えた。

 

 バスが来たので乗った。2時間弱かけて歩いた距離はバスだと15分だった。ホテル近くの小さなビーチでまた海を見た。波が高くてズボンが濡れてしまった。打ち寄せる波は砂浜に上がっても案外こちらの方まで進んでくる。すーっと波打ち際を進む波を見て、手元で伸びてくるストレートもこんな感じなのかなと思った。

 ワンタンメンみたいなものを食べて部屋に帰った。下の男はずっとスマホの画面を見ている。時々音が漏れてきた。

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#24 墾丁から

 

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 8月20日

 かなり長い時間寝ていた。昨日は風邪気味なのに雨の中を歩いてしまってちょっと疲れていた。筋肉痛がひどかったので寝る前にストレッチをした。起きると汗びっしょりで、でもだいぶ楽になった。

 カウチサーフィンのホストはきっかり10時に部屋から出てきてくれて、私を見送ってくれた。私はやはり今日も慌ててパッキングをした。ホストもやはり最後までドライな人だった。お礼にといってキットカットを渡した。

 今日行くところは墾丁(Kenting)というところである。海があるらしい。あとナショナルパークがあってハイキングもできるみたいだ。滞在していた左管駅からもバスが出ているが、私はお金を両替しに高雄駅の方まで行かなくてはいけない。メトロに乗って高雄駅で降り、銀行まで歩く。昨日とは打って変わって日差しはきつい。汗がダラダラでる。あまりにも汗が出るのでもしかしたら病み上がりなのかもしらない。

 安泰銀行で両替する。調べていた通り手数料を払わなくて済み、少しお得である。手続きはすぐに終わり、私は近くのお店で魯肉飯弁当を食べた。70元だった。弁当形式で食べれるお店はいろんな種類の料理が食べられて野菜もとれるので本当に嬉しい。

 ご飯を食べてから、時間があるのでスマホをいじってこれからの計画を立てたり、SNSを覗いたりした。どうやら日本では金足農業高校が大旋風を巻き起こしているみたいだ。

 

 

  高雄駅前でバス乗り場を探したのだけれど、ひょんなことから乗り合いタクシーに乗ることになってしまった。墾丁に行きたいのだけどどのバスに乗ればいいのか分からない。不安な気持ちで歩いていると、檳榔を噛んでいるおっさんが大声で「ケンチン!ケンチン!」と私の行き先を叫んでいた。てっきりバス会社の客引きだと思った私はどこに行けばバスに乗れるのか聞こうと声をかけた。おっさんは横にとまっている車を指差した。それは乗り合いタクシーだった。値段を聞くと350元。バスは確か340元だからそんなに悪くない。私は乗ることにした。

 不安だったけど、ドライバーの人が私の正確な行き先を聞いてくれてからやっと安心できた。隣の人は私より前の場所で降りるみたいだった。厦門から来ている人で台湾には5日間滞在するみたいだ。前の人はどうも台湾人のカップルみたいで、男の方が英語が話せないドライバーとの通訳をしてくれた。気さくな人で台湾で何をしているのかとか、何日ぐらいいるのかと聞かれた。台南でサマースクールに通っていたというと、授業がどんなんだったかとか、授業料のこととか聞かれた。

 助手席の女の人は全然喋らない人だった。「ユエナンレン」っていう言葉が聞こえた気がしたからベトナム人かもしれない。静かな人だった。

  高雄から屏東に入り、南へ東へとタクシーは進む。途中の東港というところで前のカップルが降りた。私は後列から彼らがいた中列の席に移った。そこで私は寝てしまって気がつくともう墾丁だった。

 


 その建物には私が予約したホテルの名前が確かに書いてあった。ただ予想していたよりもはるかにくたびれた感じの建物だった。しかし昨日クレジットカードで払った値段と、ここ墾丁がリゾート地だということを考えると妥当なのだ。屋上まで階段を上がる時にホテルの人がトランクを運んでくれなかったのもそれは当たり前なのだ。私は少し疲れている。

 部屋には女の人のトランクが開いたまま放ったらかしてあった。ホテルの人は終始無愛想なままで一通り説明をした後下に降りていった。私も荷物を置いて外へ出た。

 

 

 ビーチが広がっていて綺麗だった。昨日とは違って白い砂浜で、人もたくさんいた。靴を履いていたので海にははいれなかった。それでもビーチにいるだけで心がうきうきする。あたりを見渡すと家族連れや友達と来た人が多かった。砂の中に埋められたお父さんや、海に転がり込もうとするバレーボールを夢中で追いかけるあまり転んでしまった人。見たことのある風景が広がっていた。東洋人が多かったけど白人の人も結構いた。近くで結婚式用の写真を撮っている人がいた。

 


 することもないからずっと海を眺めていた。少し疲れてしまったのでセブンイレブンで涼んだ。食堂に入ろうと思ったけどどうも物価が高くていいお店がない。イートインコーナーで明日のハイキングの計画を練った。となりの男は音を出しながらスマホゲームをしていた。30分くらいいたら店員さんが試飲のお茶を出してくれた。レモンの味がしたミルクティーだった。サマースクールで一緒に過ごしていた日本人の友達がうまいうまいと言いながら紅茶を飲んでいたので、いつしか私も台湾の紅茶が美味しいと感じるようになってきた。

 もう一度ビーチを歩いた。プール付きのホテルやら色々あって、やっぱりここはリゾート地らしかった。ホテルへ帰る道にはもう色とりどりの出店が出ていてやはりどれも高かった。沢山の色と高い値段で目がチカチカした。安い食堂で魯肉飯と豆腐を食べて帰った。

 トランクを開けっぱなしにしていた女の人は香港人でとってもフレンドリーな人だった。私は王家衛王菲が好きなのでその話をした。

 


 お風呂に入ってから急につまらなくなった。布団にねっころびながら持ってきた放浪記を読んだ。芙美子が男に会いに因島に行くところだった。パン!パン!と音がなって窓を見ると海岸で花火が上がっていた。けれどももう私は何も感じられなくなっていた。

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#23 不思議な日  

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 88日。

 昨日は遅くまで起きていて、それはなかなか寮の洗濯機を使えなかったからだった。洗濯機が空くまで30分。洗濯と乾燥で合わせて1時間。その間1階の共用スペースに座って携帯をいじったり、中国語の授業の復習をしたりした。通りかかる友達に教えてもらったりもした。寮の玄関とエレベーターの間に座っているといろんな発見があった。学生の男女が深夜に外に行って何時間も戻らなかったりした。私も意味もなく近くのコンビニに行ったりした。次の週末は台中に行こうとしているのだけれど、コンビニの自動発券機でバスの値段を調べると片道250元ほどだった。あと3日しかないから早めにチケットを買わないといけない。

 ようやく乾燥機からほかほかの衣類が出てきた時、もう1時だった。そこから30分ほど中国語をやって部屋に帰って寝た。寮に入って初めて洗濯したけれどうまくいって良かった。

 

 次の日の朝、ルームメイトと少し話した。「昨日は部屋にいつ帰ってきたんだい?」みたいなことを聴かれて2時に帰ったと答えた。部屋に入る時に彼を起こさなかったことが分かったので少し安心した。

 寮に入って1週間弱。彼とはあまり話さない。どこかしら星野源に似ている彼はゲームをやっているか、ゲーム実況動画を見ているかのどちらかである。彼の名前の漢字を教えてもらったけれど読み方がわからなくて、だからいつも私の言葉は「Hi」で始まる。福健出身で台中の大学に4年間通った彼は、ここ台南の大学で毎日実験をしている。医学を学んでいるらしい。あまり詳しいことは知らない。

 

 

 授業が9時からなのに起きたら845分だった。急いでパンを食べて教室に向かう。今日は新しい棟なのだけどなにしろ広い構内だから迷ってしまった。友達のLINEに「迷ったから遅れる」と打ってまた構内をうろうろした。ようやく教室を見つけて入ったのだけどなんと教室には2人しか来ていなかった。

 朝の授業はチャイニーズオペラの授業だった。わざわざ先生が来てパワーポイントも用意されているのに3人しか教室にいないのはシュールな光景だった。ようやく930分ぐらいになって授業が始まった。チャイニーズオペラの歴史について教わった。他の授業と同様に通訳の係の人が英語でも説明をしてくれた。オペラの歴史を語る上で中国の王朝に触れないわけにはいかないのだけれど、「王朝」は英語で「dynasty」というらしい。初めて聞いた気もするし、昔に読んだことがある気もする。

 スクリーンに「崑曲」という文字が出た。元代末期に崑山(後で調べたら江蘇省蘇州市にある町のことだった)で発達した崑劇がチャイニーズオペラの起源の一つらしい。ちなみに崑曲はユネスコ無形文化遺産に登録されているみたいだ。西遊記の映像も観た。蚊になった孫悟空が女の人のおなかに入って暴れて女の人が苦しむというシーンだったのだけれど、舞台の俳優——この呼称が適切かどうかはわからないけど——の息がぴったりで中国語がわからなくても「蚊になった孫悟空が女の人のおなかに入って暴れている」のがわかった。オペラによく登場する人物も決まっているらしくて「大官生」「小官生」「中生」「鞋皮生」「正旦」という名前が出てきた。着物や化粧の仕方で舞台にいる人物の性格や位の高さがわかるようになっているらしい。なんとなく太郎冠者と次郎冠者、主人が出てくる狂言に似ているなと思った。おなじみのいろんなキャラクターが出てくるというのは落語にも似ているかもしれない。

 私の高校では、毎年一回、文化学習の授業があった。市内のホールで舞台芸術を見るのだった。落語や劇を見るのだけれど部活や勉強に疲れているみんなは大体寝ていた。たしか一年生の時は狂言だった。演目の中で山伏が何かを探して林の中に入るシーンがあるのだけれど、その時の「やっとな!!」という掛け声がなんか面白くて仲間内ではやったりした。

 

 授業では扇子の使い方も教えてもらった。歩き方や扇子の持ち方も男か女かによって違うらしい。男性の扇子の開き方と閉じ方を教えてもらったけれど難しかった。扇子は各自にプレゼントとして配られた。台湾は熱いからサマースクールの後の台湾旅行で活躍しそうである。

 扇子を開けたり閉じたりをしていたら急に扇子をもって舞いたくなった。先生がオペラでの体の動かし方を教えているのを見ながら私は扇子をひらひらしながら踊っていた。突然、ある記憶がよみがえった。かなり古い記憶で、その時わたしは年中だった。なぜ年中だったと覚えているかというと、その日は3月で一つ年上の子どもたちの卒園が近づいているころだったからだ。年長組の中には私の大好きな友達が何人かいて、彼らと離れるのは少し寂しかった。「寂しい」という感情を覚えたころだった。年長組の担任の先生は比較的年配の人で、彼女もその保育所から離れることが決まっていた。「もうお別れなので」と言ってその先生はみんなの前で日本舞踊を踊って見せてくれた。「さくら」の音楽に合わせて扇子とともに踊ったのだけれど私にはよくわからなかった。他の園児もよくわかっていなかったと思う。まだ誰の中にも彼女の踊りを評価するだけの物差しがなくて、どういう風に反応すればいいのかわからなかった。とりあえず「すごい」と思って拍手した、そんな記憶を思い出した。扇子が17年前の保育所の遊戯室での出来事と今日台南でチャイニーズオペラを学んでいる私を結んでくれたのだ。不思議な経験だった。

 

 衣装を着てみましょうということで、用意してもらった衣装にみんなで袖を通してみた。小柄な私が男性用の着物を着るとかなり袖が余った。先生に聞くと、チャイニーズオペラの衣装は袖はダルダルなものだという。基本は袖をまくっていて、踊っているうちに袖が手を覆うようになるけれどそういうものらしい。みんなで衣装を着て「主人公の男女が出会うシーン」をやってみた。たった1分ほどのシーンなのだけれどセリフが難しかった。元々中国語には声調で言葉の音程が決まっている上に、歌うようにセリフを話すからなかなか覚えられなかった。私は男性側の演者をしたのだけれど難しかった。そして照れ臭かった。ついついおどけて変な顔をしてしまう。それから次に女性の衣装を着て女性の位置で同じシーンをやった。チャイニーズオペラの世界では女性は男性に対してつつましくいなければいけないのだけれど、私の演技はオープン過ぎたらしく、テイク2をやらされた。演技をする間は違う人になり切れるのでとても気持ち良かった。

 最後にみんなで衣装を着たままで写真を撮った。なんか高校の文化祭みたいだなと思った。「レ・ミゼラブル」のガブローシュの衣装を着て女の子とツーショットを撮ったことを思い出した。

 

(※中国の古典的な舞台芸術についてはいろいろな言い方があるようなのですがここではチャイニーズオペラ、あるいはオペラとして表記しました)

 

 

 午後の授業はサーキュラーエコノミーについての授業だった。先生が循環型社会について経済学的観点からいろいろ教えてくれた。最初の方は需要と供給のグラフが出てきて、中学校の社会科を思い出して懐かしかったりした。でもあとの方になると専門用語が増えたり、英語を聞き取ろうとする集中力が落ちたりして、内容をつかめなくなってしまった。

 

 最後の中国語の授業はもう本当にわからないことばかりである。隣の子とずっと中国語に突っ込みを入れながら聴いていた。わからないことがあるとみんなすぐに質問する。先生は優しいからちゃんと答えてくれる。クラスメイトは大学で中国語を勉強をした子が多くてみんなよくできた。習った単語の発音を練習していると、向こうから声が飛んできて正しい発音を教えてくれたりする。日本人は繁体の漢字が少し読めたりするけど、発音は全く違うから難しい。逆にベトナム語には中国語と同じように声調があるらしくて、ベトナム人は発音が上手い。

 

 

 台北の友達が昨日と今日の二日、台南に出張で来ているらしくて、本当は放課後に彼女と会うことになっていた。ただ、彼女は急に台北に帰らないといけないことになってしまった。Messengerで「SORRY」みたいなメッセージが中国語の授業中に送られてきた。

 台湾人の友達がバスケに行こうというから日本人2人と台湾人2人でバスケをした。大学構内にバスケットボールコートがあって学生だけでなく一般の人もいてみんながめいめいにバスケットボールを楽しんでいた。バスケは苦手なんだけど久しぶりにすると気持ちよかった。汗がいっぱい出たけどそれも気持ちよかった。4人で2オン2をやって、疲れたらみんなでシュート練習をした。最後はゴールのしたに座ってみんなでお互いの国とか大学、言葉について話した。夕焼けがきれいだった。

 おなかのすいた4人は台南駅の近くの食堂に入った。店先に少しみすぼらしい犬と季節外れのクリスマスツリーがあった。店内には臭豆腐の匂いにあふれていた。私はかねてから食べたかった臭豆腐と麺にチャレンジしてみた。匂いは少し臭いのだけど食べると案外おいしかった。手作りだからか、おぼろ豆腐のような食感だった。豆腐好きの母親の影響で私も豆腐が好きなのだ。

 

 

 久しぶりに運動をしたせいで寮に帰るころには筋肉痛が出てきた。バスケをしてから汗でびっしょりになっていた服を脱いでシャワーをあびた。良く眠れた。

#22 台南でプール

 

 

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 ハライチの漫才に出てきそうなタイトルである。「プール」の「プ」を強めに発音したらそれっぽくなると思う。もしハライチっぽくならなかったら電話をしてほしい。

 

 

 台北でめいちゃんに会ってそれから台南にきた。台南は飯がうまいと聞いていたけれど、環境の変化に体が緊張して、全く食欲がわかなかった。

 大阪よりは気温は高くなく、しかし湿度が高く日差しが強い。日中に歩くと汗があとからあとから吹き出て水ばっかり飲んでしまう。だんだん汗がべたついきて気持ちが悪い。ドン・キホーテで買った制汗シートを使うものの追いつかない。汗っかきはこういう時に辛い。汗っかきと、乾燥肌、それから深夜の寂しがり屋はもうそれだけで損していると思う。

 

 

 数日台南で過ごしてもやっぱりまだ慣れなかった。食欲がわかなかったし、常に体のどこかがべたついて気持ちが悪い。帰りたいとは全く思わなかったけれど、「風呂につかりたいなあ」と心の底からそう思った。

 大学の寮には、シャワーしかない。街に出ても銭湯はない。車で数時間行けば温泉があるらしいけれど、それはちょっと遠すぎるし、そもそも毎日6時まで授業がある。

 台湾の人はお風呂に入るという習慣がないらしい。どうもサウナの方が人気なようで、台北で銭湯を探したらサウナばっかり見つかった。ブログをいくつか読んだ感じでは12時間2400円ぐらいの値段でサウナに入れるらしい。日本でいう健康ランドみたいなものだという。あれだけ「クールジャパン」とか言って海外に漫画とかアニメを送り込んでいるのだから「テルマエ・ロマエ」もがんがん輸出して海外にも銭湯の文化を根付かせるまでしてほしい。忍者とか海賊の漫画よりよっぽどビジネスチャンスがあるのではないだろうか。ヤマザキマリがプロヂュースした銭湯が数年後、台北あたりにオープンしたりするなら私は喜んで行こうと思う。ちなみに、これだけ書いておいて私は「テルマエ・ロマエ」を読んだことは一回もない。

 

 

 いろいろ考えた末、私はスイミングプールに行くことにした。さすがは南国、グーグルマップで検索するとプールがざくざく出てくるのだ。一回いくらで入れるかわからないけれどいくつかのプールはジャグジーがあるみたいだし、これは十分お風呂の代わりになりそうだ。

 そういうわけで大学の授業が終わって小籠包を食べた後、近くのプールに行くことにした。小籠包からプールまで約20分。夕暮れ時でも歩くとやっぱり疲れる。汗が出る。横をスクーターがビュンビュン過ぎていく。原付に34人が乗っかっても平気な顔でみんな走っている。町中スクーターだらけである。プールにはたくさん子供がいて、スイミングスクールを終えた子どもが駆け出してきた。そしてやっぱりスクーターに乗って親と帰っていった。

 

 

 入るのに勇気がいった。ここは違う言葉を話す違う国だ。どうやってコミュニケーションをとればいいのかわからない。受付の人は三人いて全員女の人だった。一人は生徒の親御さんと話していた。奥の方で残りの二人がしゃべっていた。私はささーっと気配を消しながら受付の前に立って料金を見る。学生は120元、一般は150元。そんなことが後ろの壁に書いてある。

 二つ心配事があった。一つは、学生料金で入るのに日本の大学の学生証は十分なのかということ。そしてもう一つ、私は水泳帽を持っていなかった。水泳帽を果たして借りられるのか、それとも買わないといけないのかわからなかった。後ろを振り返ると日本のプールのようにゴーグルや水泳帽を売っているのが見えたから、水泳帽がないというだけで入れないといけないということはなさそうだった。

 

 

 受付の前に立ってそれでいて何も話さない私は完全に不審者である。それでもやっとこさ勇気を出して、奥でしゃべっている一人と目を合わせた。英語で話しかけたから相手は面食らっていた。なんとか話をつけて120元で風呂に、いやプールに入れることになった。受付の女の人は多分学生で、シャワーの場所とかトイレの場所とか説明してくれたんだけど、私は聴きとることが出来なかった。結局子供を迎えに来ていたお母さんが流ちょうな英語で教えてくれた。スイミングキャップもプールサイドにあるのを借りることができた。誰かが使った後のものらしく少し濡れていた。

 

 

 荷物はみんなプールサイドの棚に置いていた。私もリュックを棚に置き、貴重品をロッカーに入れる。そして着替えてシャワーを浴びてプールサイドに出た。25メートルプールは7コースに分かれていて、そのうちの4コースでは色とりどりの水泳帽が先生に水泳を教えてもらっていた。奥の3コースは「遠泳」「自泳」(自力泳だったかも)と書かれた札がそれぞれあって、一般の人に開放されているみたいだった。「遠泳」のところでは中高年がゆっくりと泳いでいた。端っこの「自力泳」のところでは中学生くらいの年齢の子が何人か泳ぐ練習をしていた。彼らの中に私も混ざていった。実に5年ぶりのプールだった。とても気持ちがよかった。風呂の代わりにと思って来たけれど、結局のところ私は心ゆくまでプールを楽しんだのだ。

 

 

 実は、ここ数年泳ぎたいという気持ちがあった。ただ、いざ行こうとするとどうしても行けなかった。

 そもそも私は昔から泳ぐのが下手で水泳の授業が大嫌いだった。あの熱いプールサイドも、たいして仲良くもない友達と手をつないで「バディー!」と叫ぶのも嫌だった。水泳の日は何とかして休めないものかと真剣に考えた。小学校でも中学校でも勉強はよくできたのだけど唯一プールの授業だけは落ちこぼれだった。教室やグラウンドでは強がりを言ってごまかせたけど、臆病な自分を隠す場所は水の中にはなかった。

 8歳の時、やんちゃなN君にプールサイドから突き落とされたことがあった。水が怖かったから本当に溺れると思った。溺死という二文字が頭に浮かび、私はあっぷあっぷしながら何とか岸辺に這い上がった。そしてそのまま先生のところに直行し、N君のことをすぐさま言いつけた。学校のプールでそう簡単に溺れるわけがないことを知っている先生は軽くN君を叱っただけだった。もっと叱ってほしかった。

 その日は水泳の記録会だったのだけれど、私はクロールでも平泳ぎでもない独自の泳ぎ方を編み出していた。笛と共に泳ぎ始め、25メートルまでもうちょっとというところで息が苦しくなって足をつけた。顔を水から挙げてびっくりした。まだ12メートルしか泳いでなかった。

 後から知ったのだが、私の考案した泳ぎ方にはすでに「犬かき」という名前があった。

 

 泳げない私をみて、母と祖母は真剣に悩んでいたみたいだった。尼崎にいる時はわざわざ電車に乗って週に一回プールに通わされたし、西宮に越してからも事あるごとにプールに連れ出された。家族で自分だけ泳げないというのは本当につまらなかった。年下の従兄弟たちがすいすい泳ぐ中、私は伏し浮きの練習をしていた。祖母と母が一生懸命泳ぎ方を教えてくれた。しかし、泳げないという自分に腹が立つやら、親に教えてもらっているという構図が恥ずかしいやら、彼女たちに自分の泳ぎ方の欠点を指摘されてイライラするやら散々だった。そんな風に泳いでも体が硬くなって泳いでも泳いでも沈んでいくばかりだった。しまいには「教え方が悪い」とか「言い方がむかつく」とか言って教えてもらうのを嫌がった。

 家族で鬼ごっこをするときが一番つまらなかった。なんせ私が鬼になると次の人に鬼がわたるまでゆうに30分はかかるのだ。鬼になった時は心底泳げないことを呪ったし色々とむかついた。大抵だまし討ちみたいな方法で次の人にタッチするするのだった。私が鬼のまま1時間くらい経つとみんな面白くなくなって誰からともなく「さああがろうか」と言いだすのだった。プールから家に帰る車の後部座席で私はいつもふてくされていた。

 

 そんな訳で私はずっとずっとプールに苦手意識があって、プールは自分の場所じゃないと思っていた。最後にプールに入ったのは高校の授業の時で、さっきも書いたようにそれはもう5年も前のことだ。久しぶりにプールに入ってもやっぱり泳げないのは変わらなかった。けれど、台南では私が泳げないということなど誰も気にしない。もちろん誰も馬鹿にはしない。だから以前に入ったどのプールよりも水の中をのびのびと歩きまわることが出来た。水泳帽はぶかぶかで、しかも私は長髪だから泳ぐとすぐに帽子がどこかにいったけど、私はほとんどの時間を歩いて過ごしたから問題なかった。10数年ぶりにプールに入るのを楽しめた。

 

 

 結局のところ私は自分が何かを「できない」ということが許せなかったみたいだ。「できない」ことを他人に見透かされるのも指摘されるのも許せないのだ。だから日本にいる時はあんなにプールに入るのが辛かったのだ。私は水の中を歩いていた。隣の「遠泳」レーンでは私が歩くのと同じ速さでおばあさんが背泳ぎをしていた。

 外国にいると「できない」ことばかりである。勉強してもちょっとでは中国語を話せるようにはならないし、レストランのルールもよくわからない。失敗ばかりしてしまう。でも誰も私が「できない」ことにも「できる」ことにも注意を払わない。だから自意識過剰でそれでいてプライドを傷つけられたくない自分にとっては居心地が良いのだと思う。できることなら日本においてもそうありたいものだと思う。自分の心の持ち方で少しは変わるのだと思う。

 

 

 25メートルを15往復ぐらいして、ジャグジーに三回浸かって私は帰った。途中文房具屋さんによって、シールとペンを買った。ラッキーオールドサンの「さよならスカイライン」を聴いた。勉強でもしようかと思って寮の机に座ったけれど思った以上に疲れていてすぐ寝た。中国語の予習だけやった。

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