シゲブログ ~避役的放浪記~

大学でロシア語を学んでいました。関西、箱根を経て、今は北ドイツで働いています。B2レベルのドイツ語に達するのが目標です

#23 不思議な日  

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 88日。

 昨日は遅くまで起きていて、それはなかなか寮の洗濯機を使えなかったからだった。洗濯機が空くまで30分。洗濯と乾燥で合わせて1時間。その間1階の共用スペースに座って携帯をいじったり、中国語の授業の復習をしたりした。通りかかる友達に教えてもらったりもした。寮の玄関とエレベーターの間に座っているといろんな発見があった。学生の男女が深夜に外に行って何時間も戻らなかったりした。私も意味もなく近くのコンビニに行ったりした。次の週末は台中に行こうとしているのだけれど、コンビニの自動発券機でバスの値段を調べると片道250元ほどだった。あと3日しかないから早めにチケットを買わないといけない。

 ようやく乾燥機からほかほかの衣類が出てきた時、もう1時だった。そこから30分ほど中国語をやって部屋に帰って寝た。寮に入って初めて洗濯したけれどうまくいって良かった。

 

 次の日の朝、ルームメイトと少し話した。「昨日は部屋にいつ帰ってきたんだい?」みたいなことを聴かれて2時に帰ったと答えた。部屋に入る時に彼を起こさなかったことが分かったので少し安心した。

 寮に入って1週間弱。彼とはあまり話さない。どこかしら星野源に似ている彼はゲームをやっているか、ゲーム実況動画を見ているかのどちらかである。彼の名前の漢字を教えてもらったけれど読み方がわからなくて、だからいつも私の言葉は「Hi」で始まる。福健出身で台中の大学に4年間通った彼は、ここ台南の大学で毎日実験をしている。医学を学んでいるらしい。あまり詳しいことは知らない。

 

 

 授業が9時からなのに起きたら845分だった。急いでパンを食べて教室に向かう。今日は新しい棟なのだけどなにしろ広い構内だから迷ってしまった。友達のLINEに「迷ったから遅れる」と打ってまた構内をうろうろした。ようやく教室を見つけて入ったのだけどなんと教室には2人しか来ていなかった。

 朝の授業はチャイニーズオペラの授業だった。わざわざ先生が来てパワーポイントも用意されているのに3人しか教室にいないのはシュールな光景だった。ようやく930分ぐらいになって授業が始まった。チャイニーズオペラの歴史について教わった。他の授業と同様に通訳の係の人が英語でも説明をしてくれた。オペラの歴史を語る上で中国の王朝に触れないわけにはいかないのだけれど、「王朝」は英語で「dynasty」というらしい。初めて聞いた気もするし、昔に読んだことがある気もする。

 スクリーンに「崑曲」という文字が出た。元代末期に崑山(後で調べたら江蘇省蘇州市にある町のことだった)で発達した崑劇がチャイニーズオペラの起源の一つらしい。ちなみに崑曲はユネスコ無形文化遺産に登録されているみたいだ。西遊記の映像も観た。蚊になった孫悟空が女の人のおなかに入って暴れて女の人が苦しむというシーンだったのだけれど、舞台の俳優——この呼称が適切かどうかはわからないけど——の息がぴったりで中国語がわからなくても「蚊になった孫悟空が女の人のおなかに入って暴れている」のがわかった。オペラによく登場する人物も決まっているらしくて「大官生」「小官生」「中生」「鞋皮生」「正旦」という名前が出てきた。着物や化粧の仕方で舞台にいる人物の性格や位の高さがわかるようになっているらしい。なんとなく太郎冠者と次郎冠者、主人が出てくる狂言に似ているなと思った。おなじみのいろんなキャラクターが出てくるというのは落語にも似ているかもしれない。

 私の高校では、毎年一回、文化学習の授業があった。市内のホールで舞台芸術を見るのだった。落語や劇を見るのだけれど部活や勉強に疲れているみんなは大体寝ていた。たしか一年生の時は狂言だった。演目の中で山伏が何かを探して林の中に入るシーンがあるのだけれど、その時の「やっとな!!」という掛け声がなんか面白くて仲間内ではやったりした。

 

 授業では扇子の使い方も教えてもらった。歩き方や扇子の持ち方も男か女かによって違うらしい。男性の扇子の開き方と閉じ方を教えてもらったけれど難しかった。扇子は各自にプレゼントとして配られた。台湾は熱いからサマースクールの後の台湾旅行で活躍しそうである。

 扇子を開けたり閉じたりをしていたら急に扇子をもって舞いたくなった。先生がオペラでの体の動かし方を教えているのを見ながら私は扇子をひらひらしながら踊っていた。突然、ある記憶がよみがえった。かなり古い記憶で、その時わたしは年中だった。なぜ年中だったと覚えているかというと、その日は3月で一つ年上の子どもたちの卒園が近づいているころだったからだ。年長組の中には私の大好きな友達が何人かいて、彼らと離れるのは少し寂しかった。「寂しい」という感情を覚えたころだった。年長組の担任の先生は比較的年配の人で、彼女もその保育所から離れることが決まっていた。「もうお別れなので」と言ってその先生はみんなの前で日本舞踊を踊って見せてくれた。「さくら」の音楽に合わせて扇子とともに踊ったのだけれど私にはよくわからなかった。他の園児もよくわかっていなかったと思う。まだ誰の中にも彼女の踊りを評価するだけの物差しがなくて、どういう風に反応すればいいのかわからなかった。とりあえず「すごい」と思って拍手した、そんな記憶を思い出した。扇子が17年前の保育所の遊戯室での出来事と今日台南でチャイニーズオペラを学んでいる私を結んでくれたのだ。不思議な経験だった。

 

 衣装を着てみましょうということで、用意してもらった衣装にみんなで袖を通してみた。小柄な私が男性用の着物を着るとかなり袖が余った。先生に聞くと、チャイニーズオペラの衣装は袖はダルダルなものだという。基本は袖をまくっていて、踊っているうちに袖が手を覆うようになるけれどそういうものらしい。みんなで衣装を着て「主人公の男女が出会うシーン」をやってみた。たった1分ほどのシーンなのだけれどセリフが難しかった。元々中国語には声調で言葉の音程が決まっている上に、歌うようにセリフを話すからなかなか覚えられなかった。私は男性側の演者をしたのだけれど難しかった。そして照れ臭かった。ついついおどけて変な顔をしてしまう。それから次に女性の衣装を着て女性の位置で同じシーンをやった。チャイニーズオペラの世界では女性は男性に対してつつましくいなければいけないのだけれど、私の演技はオープン過ぎたらしく、テイク2をやらされた。演技をする間は違う人になり切れるのでとても気持ち良かった。

 最後にみんなで衣装を着たままで写真を撮った。なんか高校の文化祭みたいだなと思った。「レ・ミゼラブル」のガブローシュの衣装を着て女の子とツーショットを撮ったことを思い出した。

 

(※中国の古典的な舞台芸術についてはいろいろな言い方があるようなのですがここではチャイニーズオペラ、あるいはオペラとして表記しました)

 

 

 午後の授業はサーキュラーエコノミーについての授業だった。先生が循環型社会について経済学的観点からいろいろ教えてくれた。最初の方は需要と供給のグラフが出てきて、中学校の社会科を思い出して懐かしかったりした。でもあとの方になると専門用語が増えたり、英語を聞き取ろうとする集中力が落ちたりして、内容をつかめなくなってしまった。

 

 最後の中国語の授業はもう本当にわからないことばかりである。隣の子とずっと中国語に突っ込みを入れながら聴いていた。わからないことがあるとみんなすぐに質問する。先生は優しいからちゃんと答えてくれる。クラスメイトは大学で中国語を勉強をした子が多くてみんなよくできた。習った単語の発音を練習していると、向こうから声が飛んできて正しい発音を教えてくれたりする。日本人は繁体の漢字が少し読めたりするけど、発音は全く違うから難しい。逆にベトナム語には中国語と同じように声調があるらしくて、ベトナム人は発音が上手い。

 

 

 台北の友達が昨日と今日の二日、台南に出張で来ているらしくて、本当は放課後に彼女と会うことになっていた。ただ、彼女は急に台北に帰らないといけないことになってしまった。Messengerで「SORRY」みたいなメッセージが中国語の授業中に送られてきた。

 台湾人の友達がバスケに行こうというから日本人2人と台湾人2人でバスケをした。大学構内にバスケットボールコートがあって学生だけでなく一般の人もいてみんながめいめいにバスケットボールを楽しんでいた。バスケは苦手なんだけど久しぶりにすると気持ちよかった。汗がいっぱい出たけどそれも気持ちよかった。4人で2オン2をやって、疲れたらみんなでシュート練習をした。最後はゴールのしたに座ってみんなでお互いの国とか大学、言葉について話した。夕焼けがきれいだった。

 おなかのすいた4人は台南駅の近くの食堂に入った。店先に少しみすぼらしい犬と季節外れのクリスマスツリーがあった。店内には臭豆腐の匂いにあふれていた。私はかねてから食べたかった臭豆腐と麺にチャレンジしてみた。匂いは少し臭いのだけど食べると案外おいしかった。手作りだからか、おぼろ豆腐のような食感だった。豆腐好きの母親の影響で私も豆腐が好きなのだ。

 

 

 久しぶりに運動をしたせいで寮に帰るころには筋肉痛が出てきた。バスケをしてから汗でびっしょりになっていた服を脱いでシャワーをあびた。良く眠れた。

#22 台南でプール

 

 

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 ハライチの漫才に出てきそうなタイトルである。「プール」の「プ」を強めに発音したらそれっぽくなると思う。もしハライチっぽくならなかったら電話をしてほしい。

 

 

 台北でめいちゃんに会ってそれから台南にきた。台南は飯がうまいと聞いていたけれど、環境の変化に体が緊張して、全く食欲がわかなかった。

 大阪よりは気温は高くなく、しかし湿度が高く日差しが強い。日中に歩くと汗があとからあとから吹き出て水ばっかり飲んでしまう。だんだん汗がべたついきて気持ちが悪い。ドン・キホーテで買った制汗シートを使うものの追いつかない。汗っかきはこういう時に辛い。汗っかきと、乾燥肌、それから深夜の寂しがり屋はもうそれだけで損していると思う。

 

 

 数日台南で過ごしてもやっぱりまだ慣れなかった。食欲がわかなかったし、常に体のどこかがべたついて気持ちが悪い。帰りたいとは全く思わなかったけれど、「風呂につかりたいなあ」と心の底からそう思った。

 大学の寮には、シャワーしかない。街に出ても銭湯はない。車で数時間行けば温泉があるらしいけれど、それはちょっと遠すぎるし、そもそも毎日6時まで授業がある。

 台湾の人はお風呂に入るという習慣がないらしい。どうもサウナの方が人気なようで、台北で銭湯を探したらサウナばっかり見つかった。ブログをいくつか読んだ感じでは12時間2400円ぐらいの値段でサウナに入れるらしい。日本でいう健康ランドみたいなものだという。あれだけ「クールジャパン」とか言って海外に漫画とかアニメを送り込んでいるのだから「テルマエ・ロマエ」もがんがん輸出して海外にも銭湯の文化を根付かせるまでしてほしい。忍者とか海賊の漫画よりよっぽどビジネスチャンスがあるのではないだろうか。ヤマザキマリがプロヂュースした銭湯が数年後、台北あたりにオープンしたりするなら私は喜んで行こうと思う。ちなみに、これだけ書いておいて私は「テルマエ・ロマエ」を読んだことは一回もない。

 

 

 いろいろ考えた末、私はスイミングプールに行くことにした。さすがは南国、グーグルマップで検索するとプールがざくざく出てくるのだ。一回いくらで入れるかわからないけれどいくつかのプールはジャグジーがあるみたいだし、これは十分お風呂の代わりになりそうだ。

 そういうわけで大学の授業が終わって小籠包を食べた後、近くのプールに行くことにした。小籠包からプールまで約20分。夕暮れ時でも歩くとやっぱり疲れる。汗が出る。横をスクーターがビュンビュン過ぎていく。原付に34人が乗っかっても平気な顔でみんな走っている。町中スクーターだらけである。プールにはたくさん子供がいて、スイミングスクールを終えた子どもが駆け出してきた。そしてやっぱりスクーターに乗って親と帰っていった。

 

 

 入るのに勇気がいった。ここは違う言葉を話す違う国だ。どうやってコミュニケーションをとればいいのかわからない。受付の人は三人いて全員女の人だった。一人は生徒の親御さんと話していた。奥の方で残りの二人がしゃべっていた。私はささーっと気配を消しながら受付の前に立って料金を見る。学生は120元、一般は150元。そんなことが後ろの壁に書いてある。

 二つ心配事があった。一つは、学生料金で入るのに日本の大学の学生証は十分なのかということ。そしてもう一つ、私は水泳帽を持っていなかった。水泳帽を果たして借りられるのか、それとも買わないといけないのかわからなかった。後ろを振り返ると日本のプールのようにゴーグルや水泳帽を売っているのが見えたから、水泳帽がないというだけで入れないといけないということはなさそうだった。

 

 

 受付の前に立ってそれでいて何も話さない私は完全に不審者である。それでもやっとこさ勇気を出して、奥でしゃべっている一人と目を合わせた。英語で話しかけたから相手は面食らっていた。なんとか話をつけて120元で風呂に、いやプールに入れることになった。受付の女の人は多分学生で、シャワーの場所とかトイレの場所とか説明してくれたんだけど、私は聴きとることが出来なかった。結局子供を迎えに来ていたお母さんが流ちょうな英語で教えてくれた。スイミングキャップもプールサイドにあるのを借りることができた。誰かが使った後のものらしく少し濡れていた。

 

 

 荷物はみんなプールサイドの棚に置いていた。私もリュックを棚に置き、貴重品をロッカーに入れる。そして着替えてシャワーを浴びてプールサイドに出た。25メートルプールは7コースに分かれていて、そのうちの4コースでは色とりどりの水泳帽が先生に水泳を教えてもらっていた。奥の3コースは「遠泳」「自泳」(自力泳だったかも)と書かれた札がそれぞれあって、一般の人に開放されているみたいだった。「遠泳」のところでは中高年がゆっくりと泳いでいた。端っこの「自力泳」のところでは中学生くらいの年齢の子が何人か泳ぐ練習をしていた。彼らの中に私も混ざていった。実に5年ぶりのプールだった。とても気持ちがよかった。風呂の代わりにと思って来たけれど、結局のところ私は心ゆくまでプールを楽しんだのだ。

 

 

 実は、ここ数年泳ぎたいという気持ちがあった。ただ、いざ行こうとするとどうしても行けなかった。

 そもそも私は昔から泳ぐのが下手で水泳の授業が大嫌いだった。あの熱いプールサイドも、たいして仲良くもない友達と手をつないで「バディー!」と叫ぶのも嫌だった。水泳の日は何とかして休めないものかと真剣に考えた。小学校でも中学校でも勉強はよくできたのだけど唯一プールの授業だけは落ちこぼれだった。教室やグラウンドでは強がりを言ってごまかせたけど、臆病な自分を隠す場所は水の中にはなかった。

 8歳の時、やんちゃなN君にプールサイドから突き落とされたことがあった。水が怖かったから本当に溺れると思った。溺死という二文字が頭に浮かび、私はあっぷあっぷしながら何とか岸辺に這い上がった。そしてそのまま先生のところに直行し、N君のことをすぐさま言いつけた。学校のプールでそう簡単に溺れるわけがないことを知っている先生は軽くN君を叱っただけだった。もっと叱ってほしかった。

 その日は水泳の記録会だったのだけれど、私はクロールでも平泳ぎでもない独自の泳ぎ方を編み出していた。笛と共に泳ぎ始め、25メートルまでもうちょっとというところで息が苦しくなって足をつけた。顔を水から挙げてびっくりした。まだ12メートルしか泳いでなかった。

 後から知ったのだが、私の考案した泳ぎ方にはすでに「犬かき」という名前があった。

 

 泳げない私をみて、母と祖母は真剣に悩んでいたみたいだった。尼崎にいる時はわざわざ電車に乗って週に一回プールに通わされたし、西宮に越してからも事あるごとにプールに連れ出された。家族で自分だけ泳げないというのは本当につまらなかった。年下の従兄弟たちがすいすい泳ぐ中、私は伏し浮きの練習をしていた。祖母と母が一生懸命泳ぎ方を教えてくれた。しかし、泳げないという自分に腹が立つやら、親に教えてもらっているという構図が恥ずかしいやら、彼女たちに自分の泳ぎ方の欠点を指摘されてイライラするやら散々だった。そんな風に泳いでも体が硬くなって泳いでも泳いでも沈んでいくばかりだった。しまいには「教え方が悪い」とか「言い方がむかつく」とか言って教えてもらうのを嫌がった。

 家族で鬼ごっこをするときが一番つまらなかった。なんせ私が鬼になると次の人に鬼がわたるまでゆうに30分はかかるのだ。鬼になった時は心底泳げないことを呪ったし色々とむかついた。大抵だまし討ちみたいな方法で次の人にタッチするするのだった。私が鬼のまま1時間くらい経つとみんな面白くなくなって誰からともなく「さああがろうか」と言いだすのだった。プールから家に帰る車の後部座席で私はいつもふてくされていた。

 

 そんな訳で私はずっとずっとプールに苦手意識があって、プールは自分の場所じゃないと思っていた。最後にプールに入ったのは高校の授業の時で、さっきも書いたようにそれはもう5年も前のことだ。久しぶりにプールに入ってもやっぱり泳げないのは変わらなかった。けれど、台南では私が泳げないということなど誰も気にしない。もちろん誰も馬鹿にはしない。だから以前に入ったどのプールよりも水の中をのびのびと歩きまわることが出来た。水泳帽はぶかぶかで、しかも私は長髪だから泳ぐとすぐに帽子がどこかにいったけど、私はほとんどの時間を歩いて過ごしたから問題なかった。10数年ぶりにプールに入るのを楽しめた。

 

 

 結局のところ私は自分が何かを「できない」ということが許せなかったみたいだ。「できない」ことを他人に見透かされるのも指摘されるのも許せないのだ。だから日本にいる時はあんなにプールに入るのが辛かったのだ。私は水の中を歩いていた。隣の「遠泳」レーンでは私が歩くのと同じ速さでおばあさんが背泳ぎをしていた。

 外国にいると「できない」ことばかりである。勉強してもちょっとでは中国語を話せるようにはならないし、レストランのルールもよくわからない。失敗ばかりしてしまう。でも誰も私が「できない」ことにも「できる」ことにも注意を払わない。だから自意識過剰でそれでいてプライドを傷つけられたくない自分にとっては居心地が良いのだと思う。できることなら日本においてもそうありたいものだと思う。自分の心の持ち方で少しは変わるのだと思う。

 

 

 25メートルを15往復ぐらいして、ジャグジーに三回浸かって私は帰った。途中文房具屋さんによって、シールとペンを買った。ラッキーオールドサンの「さよならスカイライン」を聴いた。勉強でもしようかと思って寮の机に座ったけれど思った以上に疲れていてすぐ寝た。中国語の予習だけやった。

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#21 ワインズバーグ発ミスド行き

 

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 今日はなんとか学校に行けた。でも明日の教科のテスト勉強はどうも終わりそうになくて、昨日から困っている。

単位を落とすわけにもいかないから、ダメもとでいいから勉強をしようと思っていた。早く終わらないかなーと思いながら2限を受けて、まったく授業に集中できないままにチャイムが鳴って、それからキャンパスの解放教室で勉強することにした。しかしリュックの中身を出して私は愕然する。明日の教科のファイルがない。どうも家に置き忘れてしまったらしい。焦る。せっかく一時間半もかけて学校に来たのに家に帰らないといけない。大学で勉強をしようと思ってたくさんノートと本を持ってきたのに肝心のファイルだけがないのだ。あんまりだ。「ああ、自分のばかばかばか」心の中で叫ぶ私。ボールペンを壁に投げて机をひっくり返し、悪態をつきたくなるけれどしかしここは解放教室。私は落ち着いた風を装いながら部屋を出てバス停に向かう。入室してすぐに部屋を去る私を何人かがいぶかしんだ目で振り返る、そんな気がする。まあくよくよしていても仕方がない。帰ろう。

 

 

 キャンパス間を移動するバスは混んでいて息苦しかった。いつもキャンパス間を無料で移動するバスに乗り、別のキャンパスを経由して家に帰る。クーラーが効いていて涼しいはずなのに居心地が悪い。他人がすぐそこにいることに緊張する。息が浅くなっているのがわかる。窓を破って外に飛び出したくなる。私は空想の中でアスファルトの灼熱と混雑したバスとを天秤にかける。そうして自分の匂いと汗とオーラを消してただひたすら目の前にある小説に没入しようと努力する。シャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ、オハイオ』。

 

 

 家に帰って勉強する前にご飯を食べよう、そう思って食堂に入った。「腹が減っては戦が出来ぬ」そうおばあちゃんも言っていた。さっきまでいたキャンパスとは違ってこっちのキャンパスは和気あいあいとしている気がする。きらきらした若さが眩しい。そうたいして年の差がないはずなのに12歳下の彼らを見ると自分が年を取ってしまった気がする。幼稚な部分を抱えたまま老成してしまった自分のいびつさが痛々しいと少しだけ思う。きらきらして眩しいと思う反面、私は彼らのことを心のどこかで見下している。そんな無駄なプライドもどこかにぶん投げてしまいたいと思うけども捨てきることが出来ない。もどかしい。プライドも幼稚さも自分では自覚できなかった頃は楽だっただろうなと思う。でもその頃の私が日々をどう過ごしていたのかは思い出せない。

 

 

 食堂の看板メニューである麻婆丼を食べながら小説の続きを読む。ラストの数編を一気に読み切った。主人公のジョージ・ウィラードを乗せた汽車は、彼が育った田舎町を出て新たな冒険へと彼を連れて行った。それがラストシーンなのだが、その冒険には何の保証もないようであった。ジョージはまだ18歳だった。小説の舞台となった19世紀の終わりのオハイオ州のスモールタウンでは、大人になる年齢が私の周囲の世界より数年早いようだ。

 左手に文庫本、右手にスプーンと言ったスタイルで30分過ごした後、大学の坂を下りた私は主人公のように駅に出た。ジョージとは逆に私は家に帰る。故郷を去った彼とは違って私は22歳になってもいまだに育った町から出ることが出来ない。少し歯がゆい。もしかしたら2018年の関西圏に生きる私には故郷を去るということなどは必要ではないのかもしれない。もしかしたら大人になることさえも。

 

 

 ようやく最寄り駅について自転車に乗って家路を急ぐ。とここで気づく。頭が真っ白になる。

「あ、家の鍵わすれたわ」

 ポカーンとした。もう最悪だった。いつもなら歌いながら下る坂道も何も歌えずに終わって家に着いた。そこにあるのはマイスィートホームなんかではなくてただのコンクリートの塊だった。二階のテーブルのあるあたりを見上げて「あそこらへんに鍵があるんだけどなあ」と恨めしく思った。結局ミスドに行くことにした。蝉ばっかりうるさかった。

 

 

 途中のドン・キホーテで制汗シートを買った。来週からの台湾滞在に一役買うにちがいない。8月をまるまるひと月使って私は台湾に行く。少し緊張している。ドン・キホーテで売られているものは「安い」と刷り込まれているから無思考で買ってしまう。ここのドンキは昔から治安が悪くて、地域の悪ガキが地下駐車場で喧嘩を繰り広げていることで有名だったけど本当のところはどうだったのだろう。小学校6年生の時、同級生の何人かがドンキの駐車場で他校と喧嘩をしてきた、と自慢をしていたけれどかなりの割合の嘘があった気がする。

 レジを出たところで「うまい棒」を配っているお兄さんがいてその人に話しかけられた。よく見るとお兄さんは二人いてどちらも赤い服だった。何かの客引きなのだろうと思ったけど何の客引きかわからなかった。

「今質問に答えていただいた方にうまい棒をお配りしているんですよー」少し怖かったけれどし、悪徳商法だとしても最悪逃げたらいいやと思ってうまい棒をもらうことにした。牛タン味だった。

 

「それでは一つ目の質問行きますね? いま10代ですか? 20代ですか?」

 

 多分彼は私がマーケティング対象に入っているのかを聞き出したいのだと思うのだけれど、クイズ形式で質問をする彼のガッツに感心してしまった。「20代です」と言うと「なるほどーーー」とリアクションをしてくれる。そうしてまたうまい棒をくれる。今度は焼き鳥味。牛タン味とか焼き鳥味とかいろいろ種類があるんだなあとちょっと感心した。うまい棒を作る会社の人はすごいなあ。

 次に来た質問は、私が下宿生か自宅生かどうかを聞くもので、私は下宿生だと答えた。「なるほど、いいですね!」と笑顔で言う彼はようやく本題に入って格安スマホとポータブルWiFiのセールストークを始めた。ただ、私はあんまり必要とは思えないのには全く不要なので断った。最近別の格安スマホに契約をしたことと、YouTubeを視る時は家ではなくてWi-Fiのある大学へ行くと言った。「なるほど、そうですか。ありがとうございます」と言って彼はもう一本うまい棒をくれた。食べたことのあるコーンポタージュ味だった。

 実はうまい棒はあんまり食べたことがない。初めて食べたのは町内のクリスマス会に参加した時だった。たぶん12歳とか11歳とかそこらへんで、おいしいともまずいとも思わなかった。ただ脂っこいと思った。高校3年生の時、隣の席の女の子が誕生日に18本のうまい棒をもらっていた。そのうまい棒を近くの席の友達と一本ずつもらって食べた。平和だった。

 

 

 よくわからなかった。彼はおそらく私とそう年が変わらなくて、でもドン・キホーテのレジを出たところの暗い廊下でセールスをしている。あんなにさわやかな彼が脂っこいうまい棒を配っているのも、勉強をするために私がミスドに行ってコーヒーを飲みにいかないといけないのもよくわからなかった。大学を卒業しないといけないことはわかっているけれど、大学の勉強がどういう風に自分の人生に役立つのかさっぱりわからなかった。

 ただ自分のいるこの場所が自分のための場所ではないような気がした。自分にふさわしい場所はもっと他にあるはずだし、自分はこんなところに収まりきる人間ではないと思った。それはかなり傲慢な感覚だということも私にはわかっている。そしてそういう風な傲慢を抱えた人間——同級生の何人かや歴史上の人物、特に殺人犯や独裁者——がどういう風に評価されていて、どういう末路を送ったかを私は知っているつもりだった。しかしこのところの私はそんな肥大化したプライドに振り回されている。いい加減目を覚ませ。

 

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 『ワインズバーグ、オハイオ』には何かしらの欲求を持ちながら、その欲求を”正しい方法で”昇華させてうまく自己実現できない人々が描かれていた。彼らの何人かは自分の欲求が何なのかを探し当てることができず、何人かは探し当てることに疲れ果て、何人かは間違った方向に欲求をぶつけてしまう。

 そういった”いびつな”人間たちの悲しみや寂しさを読んで私はやり切れなくなった。私のいる場所は19世紀末のオハイオ州とは状況が随分違うようで結局は一緒なのかもしれない。”正しい方法で”自分を表現するにはどうしたらいいのだろう。わからないし、本当のところ正解なんてないのかもしれない。今ははとりあえず明日の勉強をしないといけない。

#20 雨の日に考えたこと

 

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 タイの洞窟にサッカークラブの少年とコーチが閉じこめられているらしい。一人の誕生日を祝うために洞窟に入ったら出てこれなくなったという。一度入った洞窟から出れなくなるなんてそんなわけあるかよと思ったけれど、洞窟に入った後に大雨で水位が上がって出られなくなったのだという。頭の中でもうおぼろげになってしまった高校地理が正しければ、タイは熱帯モンスーン気候だったはずだ。雨期には日本人が想像できないくらい雨がふるのだろうか。

 世界各地から彼らに応援の声が届いている。チリの鉱山事故の生還者も、ワールドカップの戦いを終えた日本代表も動画やコメントでメッセージを送っていた。ロナウドをはじめ、欧州の選手もメッセージを送っていた。洞窟の避難場所にどうやって届くのかはわからないけれど、彼らの勇気になればいいなと思う。私は洞窟内に取り残されたことがないけれど、それでも暗闇にずっといないといけない辛さは想像できる。

 

 

 日本もこのごろずっと雨だ。かなりの大雨で各地で被害が出ている。どこどこで人が流されたとか、なになに川が氾濫したとか、そういうニュースばかりだ。嵐山の渡月橋も雨で通行禁止になっていた。常寂光寺も竹林も大丈夫だろうか。嵐山に住んでいる友達から送られてきた桂川の写真には濁った水と所々に水面から顔を出した木々と建物しか映ってなくて心配になった。ツイッターを開くとやっぱり雨のことをみんな呟いていた。はじめは大学の坂を流れる水がまるで川のようになっている動画や休講情報、ネタツイが多かったのだけど、段々「家の近くの道路が冠水した」とか「広島の実家がやばい」という話が多くなってきて、避難指示の情報などが出回るようになってきた。大学の授業も休みになった。家にいてテレビをつけてもずっと大雨のニュースだった。日本地図と降雨レーダーの図を山ほど見た。

 

 

 そんな大雨のテレビに飛び込んできたのは、オウム真理教信者で死刑囚の7人が死刑執行されたニュースだった。号外が配られる様子が画面に映し出され、遺族代表が会見を開き、ジャーナリストや専門家がしゃべっていた。違和感があった。「死刑執行」の文字だけが先走りしているように思った。「速報」にすることにも、号外を刷ることにも意味があるとは思えなかった。罪を犯したとはいえ、人が死んだのだ。それを「速報」とするのは軽々しいのではないかと思った。

 遺族の人が「23年以上苦しめられてきました」というようなことを言っていた。でも死刑執行で苦しみが終わるわけではないと思う。おそらくこれからも苦しむことがあるだろう。死んだ人は戻らないのだから死刑は気休めにさえならないはずだ。殺人事件が起きた後、よく遺族の「死んで償ってほしい」という趣旨のコメントが報道されるけれど、そんな単純な話ではないと思う。心の中にはたくさんのものが逆巻いていて、ようやく絞りだされた言葉だけ一人で歩いてゆくのではないだろうか。

 広島で昔、ペルー人の男が小学一年生の女の子に性的暴行を加えて殺した事件があった。段ボールに入った遺体が発見されて、一週間後に犯人が逮捕された事件。私はその時たまたま入院中で、病院の暗い部屋でそのニュースを見た。裁判では初犯なのか再犯なのかということ、そして計画性があったかどうかが争点になった。検察側は死刑を求めたけれど結局犯人は無期懲役になった。死刑を求める署名もかなりの数が集まっていたと思う。

 忘れられないのは「死刑を求めているが、被告の命も誰の命も大切なものであると次第に思うようにもなってきた」という趣旨の父親のコメントだった。そのコメントを読んで——あるいはラジオで聴いたのかもしれない——感じたことはなかなか言葉にできない。父親は裁判を通じて死刑を求めていて、署名も集めていた。立場上は被告の死刑を求めている人だった。けれど一方では「憎しみ」や「悲しみ」という言葉だけでは表現できない、まだ名前もついていない感情を山ほど抱えていたのだと思う。

 

 (※この文章を書くにあたって、お父さんのコメントをインターネットで探しましたが、確かなものは見つかりませんでした。もしかしたら上記に書いたような趣旨のコメントは記憶違いで実際にはなかったかもしれません。間違いであればコメントなどをください。繊細なテーマなので間違いがあれば訂正したいと思います。)

 

 7人が死刑執行されたという話の後には、別の裁判のニュースが流れた。去年の3月に松戸市ベトナム国籍の女の子が殺された事件だ。逮捕されたのが保護者会の会長だったのが衝撃だった。この事件をテレビで知ったのも病室だった。おばあちゃんと二人で見ていた。私はテレビを切りたい衝動にかられた。死期が近い人にそんなニュースを聞かせたくなかった。いつもならニュースについてなにか言うおばあちゃんがその時はなにも言わないのが悲しかった。テレビ画面には女の子の写真——これでもかというぐらいアップになっている——が映っていた。判決は無期懲役だった。

 

 

 タイの話に戻るけれど、残念なことにダイバーの一人が作業中に亡くなったという。海外メディアのネット記事によると、洞窟の入り口から13人のいる場所まではだいたい4、5キロぐらいの距離があるそうである。重い物資を運んで泳ぐのは訓練を積んだ人間にとっても大変のなだろう。洞窟の中だから視界も悪いのかもしれない。そのダイバーは元軍特殊部隊の隊員で、除隊後はバンコクスワンナプーム空港で働いていたという。23日に洞窟に13人が閉じ込められているニュースを聞いて、ボランティアとして救出作業に参加していたそうである。

 彼の死を無駄にしないように、作業チームはより一層救出に力を尽くすと思うし、より一層命の重みを大事にすると思う。13人はダイバーが亡くなったことを知ってどう思うのだろうか。心理的負担を減らすために洞窟の中では知らされてないだろうが、いずれ知るだろう。でもまずは無事洞窟から脱出してほしい。それから心理的なケアも受けてほしい。

 

 

 大雨はやっと降りやんで、でも列島全体で何人もの死者が出た。死者は100人を超えそうである。行方不明の人もたくさんいるみたいだし、見つかるのが何週間先になる人ももしかしたらいるかもしれない。 

 死者の数が報道される度に私は命の軽重を考えてしまう。タイでは13人を救うためにたくさんの人が努力を続けていて、1人の人が命を落とした。無差別テロを起こした死刑囚7人の死刑が金曜日に執行されて、同じ日に1人の女の子を殺したとされる人に無期懲役が言い渡された。紛争地域では——例えばシリアやイエメンでは——今日も戦闘や爆撃が起こっていて何人もの人が死んでいる。まだ全容がわかっていないけれど日本各地では何人もの人がこの週末に亡くなった。そして私は今自宅でニュースを見ながらコーヒーを飲んでいる。不公平だなと思う。

 私の住むところも、私の家族も無事だったが、それは本当に幸せなことなのだと思う。倉敷の人も呉の人も高山の人も、それから報道されていない場所の人もみんな無事であることを祈る。もちろんタイの13人も無事に救助されることを望んでいる。結局のところ私にはそれしかできない。

 

 

 しかし本当にそれしかできないのだろうか。

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#19 マッチも擦れない男なんて

 

 化学の実験でガスバーナーを使うことになった。ガスバーナーに火をつけるにはマッチを擦らないといけなかった。「シゲ、マッチを擦って」と言われて箱からマッチ棒を出したのだけれど、どうしても勇気が出なかった。躊躇していると、女の子が「貸して」と言ってさっと火をつけ、「マッチも擦れない男なんて××じゃん」と言った。私はどうしようもない気持ちになった。落ち込んでいる自分を見せるのはプライドが許さなかったので、飄々とした風を装っていた。どう見えたかわからなかったけれど、せめてもの強がりだった。

 それは高校1年生の時で、秋か冬だった。辛かった夏休みの間高校をやめようと思い詰めていたけれど、当然やめられるはずもなくてでもクラスは全然面白くなくて、放課後に部活するためだけに学校に行っていた。そんなころだった。

 悲しかったのは、しんどくなった遠因を作った一人にマッチの彼女もいたということだ。何も傷ついていない顔をして何も話さないでいることが私なりの尊厳だった。

  知ってかしらずかI君が場を和ませる言葉を言ってくれて、それからみんな実験にとりかかった。私も煮えくり返る思いを抑えてビーカーに薬品を注ぎ、実験結果をシートに書いた。化学室は薬品の匂いが混じっていつも不思議な匂いがした。担任で化学を教えているヒゲ先生が各班を見回っていた。

 

 

 今なら、と思う。今日高校時代に戻って化学教室で実験をするなら、間違いなくなんの躊躇もなく火を起こせるだろう。「マッチも擦れない男なんて」と言われても言い返すことが出来たと思うし、傷つき方も軽かっただろう。そもそも学校をやめようとも思うほど落ち込まなかったと思う。もっと面白いことが言えたと思うし、面白いことをできたはずだ。部活ももっと賢いやり方でできたと思う。当時は視野も知見も狭かったし、なにより度胸がなかった。

 

 

 高校を卒業したとき、真っ先に襲ってきたのは「やり残した」という思いだった。仲の良いJと二人で同級生の名簿をみて「この人ともっと話したかった」とか「この人と一緒に○○をしたのが思い出だなー」とか話したりした。毎日同じ学校に通って、同じ先生の授業を受けて、同じ空間で同じ空気の中に生きていたのに、卒業するともう簡単には会えなくなるのだ。高校時代を通じてほぼ常に一人で突っ張っていた自分でも、あるいは突っ張っていたからこそ、やはり卒業直後はセンチメンタルだった。そんな私をみてJはどういう風に思っていたのだろう。

 いつでも話せる存在だったのに、みんなそれぞれの道を行くことになって簡単には会えなくなる。名簿を見て、私は話足りなかったこと、やり残したことを考えていた。話せたかもしれない面白いことや結べたかもしれない関係を自分は失ってしまったんじゃないかと思うと悲しかった。ただの名簿が輝きを放って見えた。当たり前の日常が日常でなくなって、みんなは次のステップに進んでいる最中なのに、私とJはカフェに入っていつものようにグダグダしていた。みんなに置いて行かれた気がしていた。

 

 

 今高校時代に戻れたら面白いことをできたし、なんならクラスの中心人物になれた。と半ば真剣に思っているが、一方では現在の自分が当時の自分と本質的にはそうそう変わっていないとも思う。そりゃマッチは擦れるようになったし、大学にも入れた。ただ、いろんなことを知ったというだけで本質的には同じだとも思うのだ。簡単に周囲の言葉に傷つくし、些細なことで何もできなくなる。この文章だってそうだ。同じ思い出を何度も何度も反芻しているだけだ。高校の時、自分の書いた日記を読んで勝手にセンチメンタルになっていたのと同じだ。自分でもダサいなあと思う。

 

 

 卒業から数えて今年は4年目である。就活や留学、院試の準備に忙しい人もいるようだ。今の時代ツイッターがあるから何人かの同級生の動向は入ってくるけれど、みんななんだか充実しているように見える。SNSという窓はなんだか焦ってしまう。自分だけ何もできず何も変われないままで同じ場所をぐるぐる回っている。

 就活は大変そうだ。大学4回生の人たちはツイッターでも就活のことを話すことが多くなってきた。私は就活している自分も働いている自分も全く想像できない。

 

 マッチの彼女も4回生である。就活は彼女にとってもやはり大変なのだろうか。また話すことがあったら話したい。元気にしているかな。

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#18 なつみちゃん

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 靴擦れになった。ジャストサイズだと思っていたのに実際に歩いてみると案外ぶかぶかだった。靴ひもをきつく結んでもあまり効果がなかった。やはり安い靴には安い理由があるのだ。ワゴンセールとブランド名に踊らされてまた悪い買い物をしてしまった。

 

 始めて「くつづれ」という言葉を知ったのは保育所にいた時だった。たしか年中だったと思う。同じクラスのなつみちゃんが靴擦れになっていた。履いているスリッポンが足に合っていなくて、かかとのところが切れて赤くなっていた。保育士さんがなつみちゃんにバンドエイドを貼ってあげていた。私は初めて見る「くつづれ」に興味津々だった。「くつづれ」が起きる理屈がわからなくて大人に何回も質問した。保育士の先生を質問攻めにしている間に、バンドエイドを貼ったなつみちゃんは颯爽と鬼ごっこに戻っていった。

    なつみちゃんのお母さんのこともよく覚えている。お母さんが保育所にお迎えに来ると、彼女のところに子供たちが集まってくるのだった。なつみちゃんもお母さんも優しくてみんなに好かれていたのだと思う。

 なつみちゃんのもう一つの思い出は彼女のお母さんが白内障の手術をしたことである。手術前、黒目にある白い濁り——白内障は水晶体に濁りができる病気である——を見せてもらったのだけれど、確かに黒目の中にはっきりとした白濁があった。4歳の私にはかなり衝撃だった。

 ぼんやりとした記憶が正しければ、保育所で初めてできた友達だった。母が私を連れてその街に越してきた時、私は4歳になろうとしていた。初めて保育所というものに通うことになった私だが、はじめの頃は母と離れたくなくて毎朝泣いていた。本当におんおん泣いていた。母も辛かったはずであるが、働かなくてはならないから泣く泣く私を預けていたのだと思う。そんな私に最初に話しかけてくれたのがなつみちゃんなのだ。

 

 

 次第に保育所にも慣れて、友達もたくさんできた。遠足に行ったり、プールで泳いだり菜園でピーマンを育てたりしてたらそのうちに卒園式がきた。「みんなともだち~~♪♪ ずっとずっとともだち~~♪♪」みたいな歌を歌って、みんなそれぞれ小学校に進んだ。私がアルバムに書いた「将来の夢」はサッカー選手だった。当時日韓ワールドカップが大盛り上がりでみんなサッカーに夢中だった。ベッカムのツンツンにあこがれて床屋に行ったけど「ベッカムにしてください」と言うのが恥ずかしくて、結局稲本の髪型にしてもらった。だが鏡を見てもちっとも稲本ではなかった。稲本になるには髪色も変える必要があった。

 写真を撮られることが何よりも嫌いな子供だった。行事の度に大人は私の写真を撮りたがるけれど、どういう顔をカメラに向けたらいいのかわからなかった。「笑って」と言われる度に子供扱いをされている気がした。理由もないのになぜ笑わないといけないのか。写真を撮ることは別に笑う理由にはならないと思っていた。そんな気難しい性格のせいで当時の私の写真は数が少なく、硬い表情が多い。

 卒園式の後、みんなは担任の先生と一緒にツーショットを撮っていた。母に先生と写真を撮るか聞かれた時、私は断った。そのせいで奥田先生と私の写真は残らなかった。少し残念である。式の後、みんな思い思いにお庭での時間を過ごし、三々五々家に帰った。私たち仲良し6人組は親達と共に公園に集まって少し遊んで、それから別れた。

 私たち6人はこれから3つの小学校に分かれるのだった。私とリョウは同じ小学校に行くことになっていた。他の4人は別の学校に行くのだった。「同じ市内だし、いつかまた会える」と思っていたけれど結局リョウ以外とは最後まで会えなかった。その後、私はその街から引っ越すことになり、今に至る。リョウと最後に会ってからもう10年になる。隣の校区の住んでいたなつみちゃんとは卒園以来一度も会っていない。

 

 浪人の時に偶然なつみちゃんの名前を見かけた。大学別の模試の結果が返されて、文学部志望者の成績上位者のところに私の名前が載っていた。嬉しかった。続いて友達の名前を探していた私はそこに保育所の同級生の名前を発見したのだ。正直「なつみ」という名前もそう珍しいものではないし、彼女の苗字もありふれたものなので同姓同名の別人かもしれない。けれどもその名前を見つけた時、私は少し感動した。初めて見た靴擦れもなつみちゃんの足もいっぺんに脳裏からよみがえってきて、浪人生活で疲れた心が少し安らいだ。保育所やその街のことを思い出していると勉強が進まなくて、その日は早めに家に帰ったと思う。帰りの電車で夕焼けを見ながら、もしかしたら大学で保育所の同級生に会えるかもしれないという可能性をぼんやり考えた。勉強をますます頑張ろうと思った。

 

 頑張ったものの、結局第一志望のその大学には受からなかった。だからその模試の冊子に載っていたなつみちゃんが私の知っているなつみちゃんかどうかを確かめる術は潰えてしまった。入試に落ちたことはショックだったが、しかし、なつみちゃんの件に関して言えば少しほっとしたのも事実である。彼女はもう思い出だけで十分だと思う。

 

 その思い出がまた、靴擦れのおかげでよみがえったのである。靴擦れはお風呂に入ると少ししみた。

 

 

 

#17 1974年のワールドカップ

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 真夜中、昔のワールドカップの試合映像が流れていた。1974年のワールドカップ西ドイツ大会決勝、オランダ対西ドイツ。粗いフィルムの映像がなんだか懐かしかった。

 

 今とはルールが全然違っていた。キーパーはバックパスを手で触ってもよいみたいだった。西ドイツのキーパーは手袋をしていたけどオランダのキーパーは素手だった。観客の服も今のように統一感があるわけではなくて、みんな思い思いの服で応援をしていた。試合会場はミュンヘンだった。オランダにとっては完全にアウェイでオランダがボールを持つとブーイングが起こった。

 

 アナウンサーと解説者の人の話が面白かった。有名な試合だからアナウンサーも解説者も試合の結果を知っている。なんなら解説者の一人はその試合をリアルタイムで観ていたそうだ。みんなが結果を知っているのにわざわざ実況や解説をするというのが面白かった。44年も月日が経っているわけだから、試合そのものの話よりも、フットボールの歴史や戦術の変化や、少年時代にこの試合を観てどう思ったかなどを話していた。出場した選手のその後の人生について聞くのは楽しかった。

 

 オランダにはかの有名なクライフがいて、西ドイツにもベッケンバウアーがいた。有名な選手だけれど私にとっては昔の人だ。遠い神話の人物のようでさえある。有名過ぎてほとんど静止画や文章でしか見たことがなかった。クライフはトータルフットボールと共にサッカーに革命をもたらしたし。ベッケンバウアーリベロという役割の中で輝きを放っていた。確かにそれは知っている。でも全部本や雑誌で読んだ話だ。私は一度もプレイを観たことがなかった。

 

 1974年のカメラは選手一人にフォーカスしてズームアップすることはしない。それでも二人がチームの中心で、他の選手とはちょっと違うことがわかった。試合のリズムをコントロールするためにボールを落ち着かせたり、味方へ指示を出したりする振る舞いが他とは違う。解説者の山本さんが言う。「クライフのユニフォームは一人だけ違うんです。特注なんです」 そんな馬鹿なと思ったが確かに他のオランダ選手の袖にはラインが3本入っているのにクライフの袖には2本しかない。天才だから他と違うことをやりたがるのだろうか。それとも他と違うことをやりたがるから天才なのだろうか。いずれにせよ、そういうことを許容できるのはいいなあと思った。1974年だからなのか、オランダだからなのか。あるいはクライフだからだろうか。

 

 今とはサッカーの戦術やプレーの質や速さが全然違っている。ボールを持っていないチームのプレッシャーのかけ方が明らかに弱い。74年のサッカーではセンターサークル付近で簡単にドリブルができちゃったりする。オランダが開始1分ぐらいにPKで先制をするのだけれど、そのきっかけは中盤からドリブルで持ち上がったクライフが簡単にペナルティーエリアに侵入したプレイだった。

 

 高校一年生の時に「オレンジの呪縛」という本を読んだ。オランダサッカーのファンである著者が「なぜオランダはワールドカップで優勝できないのか」ということについて書いた本である。オランダサッカーの歴史はもちろん、第二次世界大戦の影響やオランダの国民性などにも触れていてとても面白い本だった。それまで、サッカーの本と言えば小野伸二の伝記とか練習メニューについて書いた本などしか知らなかった私はすぐにその本が好きになった。サッカーに関する著者の思い出がいたるところにちりばめられていてとても素敵だと思った。著者が取材をする箇所ではユーモアにあふれた文章で相手の元選手や元監督の性格を描いていて生き生きとした文章になっていた。あとで知ったことだけれど作者のデイビッド・ウィナーはイギリス人だった。彼のブラックジョークは育った文化によるものに違いない。

 

 「オレンジの呪縛」はもちろん1974年のワールドカップ決勝についても書いていた。オランダサッカーに魅せられたイギリス人の本だから当然西ドイツが悪者だった。「美しいトータルフットボール」を体現するオランダが何回もチャンスを作ってゴールに迫るも、守り抜いた西ドイツが下馬評を覆して優勝する、という風な書き方だった。

 確かに西ドイツは荒々しくも粘り強いプレーでオランダの攻撃を食い止めることが多かった。オランダはテクニックやパスワークで相手を交わすのだけれども、最後の1対1のところでは西ドイツの選手に負けてしまう。球際の激しさやぶつかり合いを見ると西ドイツの方が勝利への執念が強いように見えた。

 一方、攻めてばかりだと思っていたオランダも意外と長い時間、守備に奔走していた。そればかりか、前半だけを見るとゴール前のチャンスは西ドイツの方が多かったように思った。この試合についてオランダがどんなにすばらしいチームであったかということがよく話題になり、西ドイツが意外な勝利を収めたと語られる場合が多いが、この1試合を観ただけでは西ドイツは勝つべくして勝ったように思えた。

 

 ただ、その大会で印象に残るプレーをしたのはオランダ代表チームだったのだと思う。彼らの展開したトータルフットボールは観客をわくわくさせ、そのトータルフットボールの考え方をもとに、近代サッカーの戦術や考え方が生まれた。コンパクトなサッカーを目指したのはオランダ人だし、最初にオフサイドトラップを考案したのもオランダ人だった。

 

 過去のことについて語られる時に、過去のことが誇張して語られることはよくある。1974年ともなると我々の世代は当然知らないわけである。私の母ですらまだ幼稚園に通っていたころである。私が40年前の試合をそう簡単に観れるはずはないので、その試合について知るには誰かの話や感想を聞く必要がある。そうなると、自分でない誰かの感想をフィルターとするしかなくなってしまう。

 ここで書いておかないといけないのは第二次世界大戦中にドイツ軍に侵略された影響で西ドイツのことをよく思っていない人が多かったであろうということである。そういう人からするとオランダ代表やクライフは西ドイツの優勝を阻むヒーローだったのだと思う。

 

 今まで「オレンジの呪縛」を読んだり、様々な人がクライフについて語るのを聞いて、1974年の決勝ではオランダとクライフが素晴らしくて、西ドイツは棚ぼた的勝利を勝ち取ったのだと思っていた。でも実際に試合を観ると、印象は違った。こういうことは往々にしてあると思う。

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